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納屋を焼く/バーニング

最近、村上春樹の短編『納屋を焼く』を読み、この小説を原作とした韓国映画『バーニング』を観た。

 

1983年に発表された『納屋を焼く』には、31歳の「僕」、20歳の「彼女」、20代後半の「彼」の3人が登場する。

「僕」と「彼女」は知り合いの結婚パーティーで知り合い、仲良くなる。旅先で「彼女」は裕福な青年「彼」と知り合い、恋人として「僕」に紹介する。10月の午後、「彼女」と「彼」は「僕」の家を訪れ、三人で「彼」が持ってきた大麻を吸う。「僕」と「彼」が二人になった時、「彼」は言う。

「時々納屋を焼くんです」

「僕」の近所にある納屋を近々焼く予定だと「彼」は告げる。「僕」は注意深く近隣を観察するが、焼け落ちた納屋はなかった。

それから時が経ち、「彼女」は姿を消してしまっていた。

 

大まかに説明するとこのような話だ。

さてこの話をどのように解釈するのだろうか?

私が読んだ直後に思ったのは彼が焼いていたのは「納屋」ではなく「女」だったのではないか、ということ。

おそらく大多数の人がそう考えるのではないだろうか。

そう解釈して読み返せば、すごくぞっとする話になっている。

そして映画『バーニング』もその読みに基づいたストーリーとなっている。

 

恐怖で冷やっとするような不気味な話だな、と思うと同時に、「存在すること」「存在しないこと」を問う話にもなっているのが気に入った。

「存在すること」はもっと詳しく言えば「ある時にある場所である人にとって、一時的に、存在すること」となるだろう。

そして「一時的に存在する」ということは、ある時を境にして「元から存在しなくなること」とつながっている。

それは最初に紹介される、彼女のパントマイム「蜜柑むき」から示唆される。

蜜柑をむくパントマイムをする彼女を褒めた僕に対して、彼女は言う。

「要するにね、そこに蜜柑があると思い込むんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。」

ここでは、「存在しないことを忘れれば、まるで存在するかのようになる」と言っている。さて、では「まるで存在するかのようになる」ことは「存在する」とイコールなのだろうか?そもそも「存在する」とはなんだろうか?

 

彼女の恋人である彼は金持ちで上品、見た目も悪くない。何の仕事をしてそう金があるのかよく分からない彼を、僕は「まるでギャツビイだね」と形容する。

まあこれもまた、彼の「虚」性を示しているのだろう。しかしここでいう「虚」は、「虚言」など「嘘」を意味する「虚」ではなく、「虚無」というか、裏側に何があるのか見当もつかない深い井戸の底みたいな暗い「虚」だ。

 

彼が僕の家に持ち寄った大麻(それはとりわけ質の良いものなので様々な記憶を呼び起こすという)を吸った僕は、なぜか小学校の学芸会での劇を思い出す。

ゆらゆらとその記憶に浸っているときに彼は言う。

「時々納屋を焼くんです」

「十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそも最初からそんなもの存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただー消えちゃうんです。ぷつんってね」

最初から存在しなかったように消えるー

まるでその通りに彼女は消える。

そして僕の家の近所の納屋は一向に燃やされない。

ここで僕は彼女について「あきらめた」。これはどういうことだろう?

世界の中での彼女の存在を諦めたということだろうか。いないことを忘れても、いることにはならないように、僕の中で彼女の存在は在り続けるとしても、それは彼女がいることにはならない。

ここで彼女は僕の前から消えてしまったけれど、世界の何処かに存在するだろう、という楽観的な結論に行き着いてもいいが、それはこの小説の冷たい世界観と何となく合わない。

という言い方は曖昧だけど、つまりそう考えてしまうと、何か重要なエッセンスをこの小説からすくい損ねる気がしてしまう。それは「彼女」の存在を「救い損ねる」ことになる。

読者は消えてしまった彼女の存在を救い出さなければならない。僕に諦められ、作者にさえも存在を手放されてしまった彼女の存在を見出し救出するのは、読者だ。

一つの解釈に過ぎないとしても、やはり彼女は彼によって焼くべき納屋の一つと見なされ、殺されたのだと思う。その直感に基づいて、ここで彼女の存在はぷっつり途絶えさせられたと決めつけてしまおう。

 その時認識されるのは、「失われた」という実感だ。喪失によって何が人にもたらされるだろうか。それをこの小説は描いていない。そのことは短編の限界かもしれないし、余韻ともなっているかもしれないが。

その後も、僕は納屋を焼く幻想を抱きながら年を取っていく。

僕は彼女を克服せず、存在を手放しうやむやにする。僕にとって納屋は即物的な納屋であるが、その納屋が特別なものとなってしまった引き金は彼だ。

彼に僕が会うことはないかもしれないが、納屋を焼くという幻想に見事囚われてしまった。僕の中にそれまで存在しなかった納屋は、存在しないことを忘れられなくなったため、パントマイムで表現されたもののように「無いのに在る」ものになった。

彼にとって納屋(=女)は存在を消していくものだ。つまり「無いと思うことで、在ることを忘れる」のだ。それが納屋を焼き続けることを可能にする。そして彼にとって新規に「納屋」が存在してくる。忘れていたことによって「在ること」に気づく。そのループだ。

彼に焼かれた「納屋」を一つ一つ想像した時、特段理由もなく殺されたであろう女たちが浮かぶ。この小説の不思議なところは、曖昧で手放したような話なのに、勝手な想像で色々考えるとやけに生々しく恐ろしい世界が立ち上がるところだ。

潜在的に広がっている世界が、女が謎の青年によって人々に知られることなく殺されていく世界なのに、そこで僕は(呑気に)納屋を焼く幻想を抱きながら人生を過ごしていく。

僕にとって、いずれ納屋は何かに変換されるかもしれない。

最初に述べた「ある時にある場所である人にとって、一時的に、存在すること」を忘れてしまうことが、個別性のある存在を切り捨てることになる。その忘却に落ちた時、僕は納屋を焼くだろう。

 

映画ではこの辺の個別性のある存在を無にせずに見出していこうとする。そこから原作にはないストーリーとなっていく。それについてはまた今度。

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