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「幸せではないが、もういい」ペーター・ハントケ

今年のノーベル文学賞受賞者はアメリカの詩人、ルイーズ・グリュック。

発表の生配信を見ていて、私は知らなくて「誰?」って感じだけど、まあ探せば誰かが日本語訳したり一冊くらい研究書があるのかな〜と思っていたら、日本ではそういうものが全然ない詩人だった。

全米図書賞を受賞しているから、アメリカ始め国際的には評価の高い詩人なのだろうが、ノーベル文学賞の候補としてはあまり予想されていなかったのではないだろうか。

軽く見ただけだが、スウェーデンでは比較的評価が高くよく読まれているらしい。

そういう意味では文学賞ノーベル賞の中でもやはり少し「評価」の与え方、受賞することで生じる意味や利用などの二次的広がりに関するその考え方が独特なのだろうか、と思う。

 

ともあれこういう「誰?」みたいな人を打ち出すことは、私みたいな、ともすれば視野が狭くなってくる一般読者に対していい紹介となる。

 

少し下世話な見方をするならば、去年受賞したペーター・ハントケに対して過去の親セルビア的姿勢から政治的批判が上がったが、今回はそんな強い批判が浮かびにくい人選ではあるなとも思った。

 

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そんなペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』(元吉瑞枝 訳)を読んだ。

51歳で自殺した自身の母を題材にし、自らの筆で彼女の人生を再構成したような内容であり、1972年に出版された。

ハントケ自身はもはや好むと好まざると、そして様々な見方をされる、世界の文学史(というのかな)に多少のスペースが割かれる作家だが、無論、彼の母は一人の「名もなき人間」だ。

その「名もなき人間」の生を、彼女自身による終わりまで描写した時、一つ一つの小さな事柄・気づきの描写に、寄る辺なさと或る(それはどこまでも「或る」としか言えない、世界を一つにまとめる「まさに」というような総体的事柄ではなく、水中でぽつぽつと生じる酸素の泡みたいなもの)「真なる実感」というものが感じられる。

そして読後感は、寂しい。

 

まず印象的なのは「幸せではないが、もういい」という日本語タイトルだろう。

このタイトルは当たりだと思う。諦観の末の肯定というか、よく分からないけど、含みの多い魅力的な題名だ。

だが訳者あとがきで説明されているのを読むと、タイトルに関してはもっと複雑だ。

 

原題は「Wunschloses Unglück」。

このタイトルには二重の異化効果があるという。

一つ目は慣用語が反転していること。

「wunschlos は常に glücklich(幸せだ)と結びついて、具体的な場面の中で、「もうこれ以上望みようがないほど(幸せだ)」という満足感を、やや冗談っぽく強調する語」という。

つまり、この時点でタイトルの意味するところは「これ以上望みようがないほど不幸だ」か。

二つ目は通常の品詞が形容詞「不幸だ」であるところを名詞「不幸」に変えていること。

「当人の気持を表明した語ではなく、事態や状態を指す語にしている」

「しかしながら「もう望みようがないほど」(wunschlos)という方は常に当人の気持ちを表現しているので、この組み合わせは構造的にも異化的なのである」

そうすると、このタイトルのニュアンスを想像するなら「もう望みようがないほど、“不幸”」だろうか。

つまり「幸せではないが、もういい」というのは原題の「もうこれ以上はない」と「不幸」のニュアンスを受け継ぎつつ、日本語としてはさらに意味としての存在感を増幅させる意欲的なタイトルだといえる。原題で慣用語をひっくり返している点は、「幸せではないがもういい」という「普通」の価値観を反転させた言い方で受け継いでいると言えなくもない。

人が見た時に印象に残る、忘れないタイトルとなっている。

 

この本の中で、「彼女」が自らの人生の終着点を定めて、家族や親戚に別れの手紙を書くところがある。

「彼女には、自分が何をしているかわかっていただけではなく、なぜそれ以外のことがもうできないのかもわかっていた」

 

この絶望の境地を書く息子の悲哀というものに、私は作中一番心が揺れたかもしれない。