hiro

https://lineblog.me/hirokom/

愛、アムール

ミヒャエル・ハネケ監督「愛、アムール」(2012年)について

(ストーリーの結末に言及あり)

 

愛、アムール」は2012年カンヌ国際映画祭パルムドールに輝き、ハネケにとっては前作「白いリボン」に続き、2作連続でのパルムドール受賞となった。優れた映画作家としての世界的評価を揺るぎないものにしたと言っていいだろう。

f:id:pookkk:20200411004536j:plain

原題は「AMOUR」、つまりストレートに「愛」。なんとハネケは「愛」とこの映画を名付けた。

邦題は「愛、アムール」。「愛」という言葉を2言語で繰り返す。

繰り返しは広がりをもたらす。

愛、アムール、、愛、アムール、、」響きが生まれ、意味よりも詩的な余韻が先行する気がする。そしてそれは意味の再考につながる。

映画ではジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァが演じる老夫婦が登場する。

伝説的名優二人のこのキャストだけでもすごい。

この映画が遺作となったエマニュエル・リヴァの代表作は「ヒロシマ・モナムール/二十四時間の情事」(アラン・レネ監督、1959年)。ここにも「モナムール mon amour」という言葉が。

 

愛、アムール」は、警察が玄関の扉を壊し部屋に入ると、悪臭に鼻を押さえながらドアに目張りされたガムテープをはがし、窓を開ける様子から始まる。ベッドには死後時間が経ったであろう女性がいた。

不穏な始まり方だが、すぐ、ピアノのコンサートに耳を傾け高級アパルトマンに帰る老夫婦のシーンに移る。

これは、パリで穏やかな満ち足りた生活を送る裕福な老夫婦ジョルジュとアンヌの物語だ。

静かに日々を過ごしていたであろう二人だが、ある日突然妻は病に倒れ、車椅子生活となった。痴呆の症状も進んでいく妻の病院嫌いを尊重して、夫は自宅で世話をする。徐々に世間とのつながりを絶たれていく二人、夫は在りし日の妻を幻覚に見る。だんだんと意思疎通ができなくなり子供のようになっていく妻との生活に夫は追い詰められていく。

ある夜「痛い、痛い」(mal mal)と叫ぶ妻の手をさすりながら、夫は少年の頃の思い出を語る。

キャンプに行った彼は母親に絵葉書を送ったという。楽しい時は花の絵、悲しい時は星の絵を描いて。そこで彼はジフテリアにかかった。母親への絵葉書には星をいっぱいに描いた。その絵葉書はもうない、残念だ...と。

語り終わったころ、妻は静かになっていた。「痛い、痛い」(mal mal)という言葉は、響きだけだと「ママ、ママ」にも聞こえる。妻は痴呆となってからはしばしば少女の頃を思い出し、母親を呼びかけていた。

その時、子供の頃の母親の存在が二人には流れていたのだろうか。夫は少女のように横たわる妻を見て、何を思ったのだろうか。少年の頃の悲しみと、今現前の悲しみが呼応したのだろうか。絵葉書いっぱいの悲しみは、目の前の悲しみも増幅させ彼を包んだのか。

そうするしかない、と思ったのだろうか、おもむろに枕を手に取ると妻の顔に押し当てた。

息絶えた妻の身なりを整えると、夫は花を買い彼女の周りに並べる。窓を閉じ、部屋の扉にはガムテープを貼った。もう誰も入れないように。

簡易的な寝床で夫が横たわっていると、食器を洗う音が聞こえる。台所へ行くと妻が食器を煮沸消毒していた。立ちすくむ夫に呼びかける。「靴を履いて出かけましょう」言われるがまま靴を履く夫に妻は「コートは着ないの?」と尋ねる。夫はコートを着ると、二人は扉を開けて出て行った。

ここで物語は閉じる。最後に残された娘(イザベル・ユペール)が無人の部屋を歩き椅子に座ったところで映画はエンドロールを迎える。

夫はどこに行ったのだろうか?現実的には自殺したと推測するが、もっと違う考え方、もっと別の世界に行ってしまったような気もする。

 

この映画は見ている時はどんどん心が追い詰められて入り込んでしまうが、それを思い出している時の方が悲しく感情に訴えかけてくる。

老老介護の現実、というには少し綺麗すぎる描写から、やっぱりこれは愛というものに焦点を絞った話なんだろうと思う。

知的悪戯に満ちた皮肉的な映画を作るハネケが、映画に名付けた「愛」は、エゴから離れられないことを示す。だがこの純粋さはなんだろう。そして、これは愛ではない、と言い切ることができるだろうか?(できない)

 

 

一方でこの映画は、世界の不可解さ、ブラック・スワン的要素に左右される人生の不安定さも示している。

(ブラック・スワンとは、株式市場において主に使われる言葉で、全く予想できないことが起こること、それが起こると甚大な影響を及ぼすこと、かつ起きたあとでそれがまるで最初から起こることが分かっていたかのように専門家からは説明されがちなこと。)

妻はアルバムをめくり、自らの人生を振り返りながら「かくも長く、かくも素晴らしい」とつぶやく。認知症になった時、ベッドの上でうわ言を言うが、その内容は少女の頃の思い出や母親への呼びかけだ。アンヌにはアンヌの人生があり、そこに夫も娘も入り込むことはできない。

 

また、映画の冒頭で夫婦は玄関の鍵が壊れていることに気づく。誰も侵入した形跡はない。だが後から考えればその時「何か」が侵入していたのだろう。「不幸」とでも言うべきものが。

ストーリーにおいて、しばしば夫は何かが部屋に侵入した気配を感じる。また夢の中で部屋は水浸しになり、アパルトマンの廊下を歩いていると後ろから何者かに顔を押さえられる。

何かが夫婦の生活を徐々に浸食していたし、夫はだんだんと何かに追い詰められていた。

それは「老い」という自然のものであると同時に、人生が最期に向かうきっかけとなる転換点、黒い影としか言いようのない漠然とした「不幸」でもある。

また夫が夜、窓を開けっぱなしにしていると、鳩が部屋に入り込む。

夫はその時は鳩を追い出すが、妻を殺した後、また部屋に鳩が入り込んでいることに気づく。

今度はその鳩を追い出さず捕まえ、撫でる。夫は侵入者と共存することにした。

鳩は何かの使者か?運命に従う、という態度の表明か?

妻の人生への回顧、不穏な何かの侵入の示唆、この2点において人は一人であること、いとも簡単に人生が変わってしまうことを感じる。

 

そしてこの映画において音楽は、それが際立つように使われている。

ピアニストであった妻の演奏、妻の弟子による演奏、ほとんどそれだけであり、他に音楽が流れることはなく、生活音、声のみで映画の音が構成されている。

 

その静けさが逆に見る人の心を波立たせる。

最後に夫が部屋から出て行き、扉が閉まる音。それは人が全く別の世界に行ってしまった音に聞こえ、見る者が置き去りにされた音にも聞こえる。死んだはずの妻が食器を煮沸消毒する時のかちゃかちゃとした音が、現実的でありすぎる故に、妻がまるで生きているように感じる。幻覚にみたピアノを弾く在りし日の妻、だがその音はものすごくリアルだ。だがその音はCDのものだった。プレイヤーが開きCDが取り出される無機質な音の悲しさ。

生活音がまるで解読不可能なほど意味のある象徴的な音に聞こえる。

 

まとまりなく書いてきたが、「愛、アムール」は私の中でオールタイムベストの一本だ。

見たときに感じたことはとても言葉にし尽くせない。

愛は残酷で悲しすぎるし、人生は長くつらいものだ。

だが、しかし...?

人生はかくも長く、かくも素晴らしい、とつぶやくエマニュエル・リヴァ。それは映画上の皮肉でもあるが、本当の実感でもあるだろう。

これほどの深い余韻をもたらす傑作。優れた芸術作品であり、画は全て完璧だ。美しい映画である。

ちなみに日本版の予告編はミスリードを誘いそうで、あまり好みではない。


映画『愛、アムール』予告編