「ぼくは
挨拶したかったんだ
さよならって」
という詩の一節を目にした。(誰の詩かは明記しないでおく)
それが心に残り、何度か思い出すうちに
「ぼくは
ただ挨拶したかったんだ
さよならって」
というふうに、いつの間にか記憶していた。
人の記憶は感傷をもって改変されうることの好例だな、と思った。
「ただ」が加わることで、「さよならと言いたかった」ことが強調される。その分すこし理屈が消えて感傷的になってしまう。
ビジュアルに訴えかける作品というのは、理屈よりも感情に訴え掛ける力が強い。だから、それを見たときにどうしてこんなに驚き感動するのか、考えて言語化するのはすごく難しい。可能なのだろうか、とさえ思う。
最近、ウォン・カーウァイ(王家衛)監督の映画『花様年華』(2000年)を見た。
20歳前後に見たきりで、ふとマギー・チャンの様々なバリエーションのチャイナドレス姿が見たくなってレンタルした。(もう何ヶ月映画館に行ってないだろう...)
60年代の香港を舞台に惹かれ合う二人の男女の物語だ。
見ている間中、こんなにすごい映画だったのかと…良いシーンを延々と並べることはできるけど、それ以上のことはどうしたら言えるのかと…いう気持ちになった。
画面の求心力が常に一定レベルを保ち、美術・構図・色味がその世界観を確立している。
見るものを惑わせる空間と時間の構造、カメラの向けられる方向、動き・切り返し、それらが神がかっている。
完成度がずば抜けて高く天才が作った、と思う映画の一つの要素に、どの場面を切り取っても一枚の絵葉書にできる、というのがあると思う。
今までにそう感じた映画は
エリック・ロメールの大体の映画
だったけど、今回「花様年華」が加わった。
ミーハーな私としてはマギー・チャンの美しさに驚いた。
おそらく派手な顔立ちではないと思うのだが、上品さと可憐さを失わず成熟した美しさを持ち、この映画の中では一輪の芍薬のような静かな華やかさで存在している。
彼女を美しく撮ることにかなりの神経を使った映画であろう。
もちろんこの魅力は、ビジュアルから来るものだけではない。
「ああ、映画のための俳優だな」と思わせる存在感の強度を持っていて、正直この「強度」を持つ俳優はものすごく少ない。
この世界観の確立した映画にのまれることなく、むしろ相乗効果でもっと高い次元の感情に導いてくれるのは、マギー・チャンのふとした動きや佇まい、声、そして一瞬の奇跡の様な何とも言えないアンニュイな表情だ。
物語で二人は結ばれることはないのだが、
数年後に二人が過ごしたアパートを訪ね窓から外を見るマギー・チャンの表情。
涙をためているような潤んだ目でじっと見て何かを考えている、それを見ていたらもう何も言う言葉は無くなってしまう。
トニー・レオンはプレイボーイ役が多い印象だけど、「花様年華」では優しげなサラリーマン、紳士的で真面目な小市民というところ。
全くベッドシーンがないのも、彼の、なんて言うのだろう...端正で純朴な魅力、憂いと優しさをたたえた目、そういったものをストレートに感じることができる。
こういう雰囲気を持った俳優は今の日本でいるのかな...吹けば飛ぶような儚さ、それと相反する存在の強さを両立し、男らしさを備えた、きれいな雰囲気を出せる俳優。
昔の日本映画だと例えば、佐田啓二、森雅之、といった王道の2枚目俳優が浮かぶのだけど。
ラスト、トニー・レオンはアンコール・ワットの柱の穴に自らの秘密を打ち明ける。
そのあと、穴からは植物の蔦が生えている。
二人はお互いの面影を忘れることなく別々の人生を送るのだろう。そしていつか死ぬだろう。誰も知ることのない物語となるだろう。
しかしそれを打ち明けられた石の柱からは生命が芽吹き、世界の片隅でひっそり生きて残っていく。
ここで何を言って結びとしたらいいのか分からないけれど...この言葉にならない叙情を残す映画を傑作と言わず何と言うのだろう?
美しい映画である。