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Summer of 85

フランソワ・オゾン監督の『Summer of 85』を見ました。

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フランソワ・オゾンの映画は結構好きなものが多いのだけれど、この映画はあまり私には来なかったような気がします。

80年代のフランスの海岸、夏の風景などの映像はすごくよかったです。というか、フランソワ・オゾンの映画は映像や雰囲気でイマイチということはないんですよね。コンパクトな時間・分量の中に綺麗で最高な構図の映像をラフに積み重ねていくイメージ。

神経質さを感じないままの完璧さで、見ていて非常に心地よい空気感。

雨が降っている中で入ったカフェの直角の広い窓に水滴が滴るも、そこから広がる晴れた海の景色を背にしたアレックスとルフェーブル先生のシーンはすごかったですね。

あんまり入ってこなかったのは、ストーリーが展開する上でそれぞれの鍵となる起点がそこまでシリアスではないような気がして、そのちぐはぐさが気になったり。

ヴァレリア・ブルーニ・テデスキは好きな俳優ですが、ここでもいい母親そうで思い込みの強い癖のある人を本当にそのまんまこういう人っぽいな、と思ってしまう、はまった感じで演じていました。

メルヴィル・プポーがルフェーブル先生と全然気付かなくて、クレジットにメルヴィル・プポーがあるけど、いつ出てくるんだろう…と思ってました。

あの先生がプポーと知ってびっくり。でももう彼も50歳を過ぎていたんですね、私の記憶の中のプポーを更新しなければ。

記憶の中のプポーは

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でしたが、今は

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で更新。

よい歳の取り方をしてしました。

個人的にメルヴィル・プポーフランソワ・オゾンって少し似ている気がして、オゾンの映画に出ているプポーは監督の分身のようなものなのかしら?と思ったりします。

 

ストーリーは

フェリックス・ルフェーブル演じる「アレックス」が海でバンジャマン・ヴォワザン演じる「ダヴィド」と出会い、親しくなり恋愛関係になるが…というもの。

アレックス役の人の名字がルフェーブルなのは偶然かな。

どちらも初めて見る俳優でしたが、

バンジャマン・ヴォワザンは個人的に惹かれました。

80'sの雰囲気がすごくよく出ている。

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「幻滅」という19世紀のパリを舞台にした映画に主演し評価されているようですが、少し昔っぽい顔つきは時代ものにこそ、はまるような気がします。

正面から見た時に少し軽薄そうな意地の悪そうな顔であり、横から見るとセクシーで綺麗な、悪い男のような雰囲気があり。

アレックス役のフェリックス・ルフェーブルはそれに対して、すごく90'sぽい顔だなぁと思いました。

だから個人的にこの映画は、80'sを悼み、葬り、次へと進むようなストーリーだと思ったんですよね。

オゾンにとっての80年代なのか、アレックスにとっての80年代なのか、は分かりづらいけど、ダヴィドという人物を通して表象される80年代的なものを愛していたような気がします。

そしてその80'sの軽薄さと不安定さに裏切られ、それなのに罪悪感を抱きつつ生きていく、だって僕たちはそういうものでしょう?みたいな感じ。

自分の中で少し気になることは、ダヴィドがユダヤ人であることは、映画の中で言及されたり表象として登場することでわかるのですが、そのわかりやすいところ以外で何かしらの作用をしているのか、ということ。

しかしロッド・スチュワートのSailingを久しぶりに聞きました。彼の曲は本当、最初からクライマックスって感じですよね。

ディスコのシーンで流れた時はいいなぁと思ったんだけど、その後の曲の引っ張り方が少し辟易するような気がしました。

ウーマン・トーキング 私たちの選択

サラ・ポーリー監督「ウーマン・トーキング 私たちの選択」(2022)を見ました。

ルーニー・マーラベン・ウィショーが出てるので気になっていました。

フランシス・マクドーナンドも出ていたんですね。

ある小さな村というのか、小さな共同体で女性たちは朝起きると自分の体の異変に気づきます。馬用の麻酔薬で気絶させられて夜な夜な女性たちがレイプされていたのです。しばらくの間、それは悪魔の仕業であるとか女性たちの気のせいだとかされて有耶無耶にされていましたが、犯人グループが判明し町の警察に連れて行かれます。男性らが保釈金を払いにいっている間、村に残っていた女性たちは自分たちがされていたことについてどう対応するか(許すか、戦うか、この村を去るか)を話し合う、その場面が映画の主軸となります。

あまり前情報もなく見ていたので、最初はこの映画の時間設定が謎で気になりました。

服装や髪型、建物の雰囲気などが相当昔に見えるんですよね。しかも女性たちは文字が読めない。開拓時代?と思いつつ、いくつかの家のダイニングキッチンが映し出されるシーンがあるんですが、冷蔵庫などあり割と近代的に見える。少なくとも戦後?いやこのキッチン設備を見るとそれより数十年は経っている感覚だな、にしても女性たちの服装が古すぎる。農奴的扱いをされて時代から取り残された共同体の話かな、と思っていたところ、村を通る車のスピーカーから流れる「2010年」という言葉にびっくりしました。

まさかの十数年前の設定だった。いやーだって、2010年って言ったら、ハイテク機器に取り囲まれてスウェットとか着てる人でしょ...この生活を21世紀も10年近く経ってからしてるとこがあるのか...

あとで調べると、実際に2010年にボリビアで起きた事件をもとにした話で、生活スタイルをどれほど近づけているのは分からないですが、隔絶された宗教的共同体であることより、ある程度は近いのではないかなぁと思っています。

現代的な価値観でいえば、しかるべき裁きと女性たちの安全確保と思いますが、この共同体の特異性(女性たちに教育が施されていない・完全に従の立場)からすると、根本的にこの村で女性たちは安全に自分らしくは生きていくことはできないのではないかと思いました。

終始「夜明け前」みたいなカラートーンで、個人的に好みですが、確かにこれは文字通り「夜明け前」の話なんですよね。

最終的に女性たちは出ていくことを選択します。それがどれほど現実的な選択なのかはクエスチョンですが、「出エジプト」を彷彿とさせるその場面は映画としては崇高なものに見えました。ルーニー・マーラ演じるオーナが最もいわゆるリベラル的な考えの持ち主に見えましたが、出ていくことが逃げることではない、距離をおくことで赦す視点も生まれるのではないか、と言いました。また、女性たちは、赦すということは強制されてできるものではないのに、現在の状況で男たちを赦すということは強制性を免れないし、「許可する」ことと混同されうるものになるのではないかということなどを語り合っていきます。実際にこの犯罪行為を行っていたのは一部の男性ではあるが、この村の脈々と受け継がれる(無)教育がそれらを生み出し、子どもたちもそうなってしまうのではないかということ。話している女性たちの中で武闘派は1人くらいだったと思いますが、相手に制裁を加えることによって宗教的に罰されるのでは、と特に年長者は話していましたね。戦う、つまり暴力によってねじ伏せることは難しい現実もあると思うけど、殺してもいい、と思えるくらいの憎しみを対話によって分解している感じはしました。それぞれの女性がこの犯罪行為の被害者であり、それに対する反応の仕方はそれぞれだけど、その苦悩はみな同じくらい深いものだということは、見ているとわかります。ただ武闘派の女性は村を出ていく際に武器になりそうなものをいくつか持っていっていましたし、自分の息子を馬用麻酔(!)で気絶させて連れていっていましたので、この変わらなさをちゃんと描くところが、なんというか、うーん、ただ、多分私自身そんなに寛容ではないので、この憎しみと攻撃性を理解できるような気がするから、判断を留保したいところにはなります。

文字を読めない彼女たちの対話において重要になるのが、書記です。

ベン・ウィショー演じる、過去に村を追放された一家の息子オーガスト(大卒・「農夫くずれの教師」)がその役目を担います。かわいそうになるほど善良な人間で、母親もこの村に疑問を持っていたことから村を追われることになったといいます。インテリで女性の社会的存在を理解している「弱き男性」、まさにうってつけの人材で多少都合がよいような気がしますが、そんな見方を上回るほど、ベン・ウィショー演じるオーガストはすごくよいです。

村に残ることになっていたオーガストの、女性たちとの別れのときに涙が出ました。

オーガストとオーナとの交流がすごくいい場面ばかりで、だから、このブログには書きません。

オーガストが「善のリスト」を作っている場面の素晴らしさ。最後の「women」で深く息を吐くような感動がありました。

一番最後に武闘派の女性と別れる際、身を守るためにと拳銃を手渡すのです。つまりオーガストは皆を見送ったあと自殺するつもりだったんですね。女性も察して「死んじゃダメよ」と言うのですが、そのときのオーガストの泣きながら笑っているような顔に、心が締め付けられました。

2024/02/01

え、2月始まってます?

2月と3月は優しいイメージ。美しい世界、とシンプルに感じるし、本当によくできてる...と思う。空の色も、陽の光も、植物も。

ここで浮かぶのは

野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。

という新約聖書マタイの福音書の節。

こういうのを出すと宗教にかぶれてるな、大丈夫かと思われるかもしれないけど、でも、聖書を読むことは教養の一つですから。とか偉そうなことを言ってみる。ラテン語を覚えなければいけなかった頃に比べれば、易しい話だ。

出したついでにこの箇所を全文引用してみる。(一部改行はこちらでしました)

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思う煩うな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

だからあなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。

だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。 (マタイ6章25-34)

 

なんかいい事言ってる〜(薄い感想)

命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

その通りだよね〜と相槌打ちたくなる。(やめて)

空の鳥〜、野の花〜の箇所は昔、宗教の授業でも繰り返し話されていたところなので

頭に残っているんだけど、

だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。

の箇所は、へえこんなこと言ってたんだーと新たに気づきました。目が開く、って感じ。

「明日できることをきょうやるな」的なことを言ってますよね。大事ですよねー(薄い感想2)

 

セブチの話していいですか?(誰に聞いてるの?)

相変わらず、コンテンツをせっせと消費しまくっていて

この間「13少年漂流記ーSEVENTEENのある素敵な日ー」というセブチが荷物最低限以下で島流しにされて食べ物とかを自分で調達して生活するという番組を見たんですが、最終話である悲しい場面で流れていた音楽が映画『オールドボーイ』のThe Last Waltzという曲でした。

最初に聞いたときに、「あっ」と記憶の鍵が外れたような感覚があって、どんどんその映画のことを思い出してきました。ちなみに流れたシーンは悲しい場面というつつ、全体的にバラエティーなので『オールドボーイ』のあの悲しさとは全く別物で、その落差はちょっと面白かったです。スタッフさんも絶対分かってて使ったよね。

パク・チャヌク監督『オールドボーイ』は中学生のときに見て、ちょっと年齢的には早かったと思うんだけど、

でもすごく脳に焼きつくような映画でした。大人になってからもまた見ました。

画面の構成の美学というものを感じたというか、草原で内側がピンク色のスーツケースから出てくるシーンとか、鋭い角度の坂を一直線に走るシーンの線と人の動きの組み合わせとか、寿司店で赤い壁紙を背景にカン・へジョン演じるミドを真ん中に持ってきてぐわんと映す場面とか。ちょっとKPOPアイドルの歌番組でのカメラワーク(酔いそうなほど、ぐわんと寄って引いて)にも同じものを感じる。

俳優陣も素晴らしいと思いました。チェ・ミンシクカン・ヘジョン、ユ・ジテ。

カン・へジョンはこれで大好きになりました。

なぜかひどく記憶に残るのはユ・ジテなんですよね...敵役なんだけど、やばい奴なんだけど、とても哀しい人間。彼の涙、嫌な笑み、そして最後。

最後のチェ・ミンスクとユ・ジテの対決の場面は部屋の構造から置いてあるものから何から全てがとても映画としてかっこよくて、そして二人は哀れでした。でもハサミで切る場面は見ていられません(見てます)

これが実質韓国映画デビューだったと記憶していますが、こりゃ面白いわ〜と思いました。

ちょうどパク・チャヌクとかポン・ジュノとかの映画の時代というか。

セブチの話全然できなかった!

2024/01/29

わあーもうすぐ1月もおわりですかー

相変わらず漫画ばかり読んでます

本は「ロシア語だけの青春」黒田龍之助著をちょっとずつ。

漫画は「恋じゃねえから」渡辺ペコが最近の新刊ではやっぱり面白いなぁ〜と思います。

渡辺ペコの漫画は結構好きで「にこたま」くらいから継続して読んでます。

「恋じゃねえから」はMe Too以降のこの世の中においてポイントとなるような注目すべき作品だと思う。

結構私(30代)の子供の頃の少女漫画って、少女を搾取する恋愛ストーリーが多くてその問題をスルーしてたんだなぁと思いました。別にフィクションだし、私は未成年の時に何も加害行為もされた覚えがなく(てか異性と交わりも接点もなく、非常に安全な環境の中で勉強と文化吸収に励み映画スターに憧れる、、つまりオタク?だった)(いや今も?)すごく幸運な少女時代だったので

何か直接的に悪影響があったわけじゃないけど、ただ気づかなかったことは思い上がりに繋がっていたのではないかと思う。

少女マンガに限らず、今思うと「ありえねーわー」と思う女性の表象は多いですね。

「これ恋じゃなかったのかも…?」「いや、これは恋じゃねえわ」「てか恋じゃねえから!」みたいな結論がまず先にある漫画です。結論ありきの話というのは面白くなくなる可能性っていうのはあるわけですが、この漫画が面白いのは、その結論がスカッとしてるのとその先の面倒で複雑で難しい現実がよく描かれてるからかなぁ。

あと私は主人公2人のシスターフッド的連帯にかなり感動してます。本当すれ違いとか誤解とかそういうのなく、破壊と創造へ突き進んでほしい。

 

2024/01/20

2023年に読んだ本や見た映画の振り返りをしようと思ったけど、

改めて振り返ると、去年はめちゃくちゃ漫画読んでました。あと韓国アイドル(主にセブチ)にはまってました。

あれ、全然書けることないかもーと思いつつ振り返る。

 

映画は25本見てました。少ないし、そんなに心動く出合いがなかったです。

おととしか、セリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』を見たときは、しばらくこの映画から抜け出せないくらいで、すごい才能のある監督の素晴らしい映画だと思ったんですが、それくらいの衝撃を受けることはなかった。ただ、数打たなきゃ出合えないんですよね。だから絶対数が足りなかった。

挙げていくと

ゴッドファーザーフランシス・フォード・コッポラ

麦秋小津安二郎

「主戦場」ミキ・デザキ

アンダーグラウンドエミール・クストリッツァ

「秘密の森の、その向こう」セリーヌ・シアマ

 

番外編で「ルージュ」(スタンリー・クワン)のレスリー・チャン

が印象に残ったかなあと。

麦秋とアンダーグランウンドは見たの2、3回目くらいかな。最高到達点みたいなセカオワの曲ではない)映画です。

 

主戦場で

「重大な 人権侵害の犠牲者に

それ以上 何を期待できるのでしょうか?」

という言葉がありました。

従軍慰安婦だった女性の証言が細部について変わっていることに対し、それをもとに証言の信憑性を疑う声への反論であったと記憶していますが

これを見た時にハッとしたのを覚えています。

去年は、ジャニーズ事務所ジャニー喜多川の性加害問題に起因して解体した年でもあったんですが、被害を訴える人たちに対する誹謗中傷は、ひどく思いやりに欠けるものであったと思います。そのようなものを見るたびに、この言葉が浮かびました。

 

「秘密の森の、その向こう」

監督のセリーヌ・シアマは当代最も注目すべき監督の1人だと思います。「燃ゆる女の肖像」がもう本当にね…涙涙

あそこで...振り向いてしまうんですよね...!やっぱり...(見た人にしか分からない感想を入れないでください)

涙しか出ない。

この人の映画、すごく好きです。

静謐な画面に、色彩の構成がすぐれている。

音楽の使用が最小限になっている分、ここぞという時に使われる音楽が響く。人の声を重ねたものが多く、音楽というより、神への捧げ物みたいな無垢で原初的な荘厳さがあるんです。

 

レスリー・チャンは…いいですよね。目がいいんですよね。悲しげで優しげで。

同じアジアでも、日本とは纏う空気の湿度が違うような、流れていた時間が少し違うような、そんな魅力が香港の映画スターにはあります。

 

本は

「証しー日本のキリスト者最相葉月

「影に対して 母をめぐる物語」遠藤周作

「パチンコ」ミン・ジン・リー

「韓国現代詩選」茨木のり子

 

を読んでいた時間がすごく濃密で楽しくて幸せでした。

日本には少ないキリスト教信者135人へのインタビューを編んだ1000ページを超える大作「証しー日本のキリスト者」。

親がクリスチャンで教会に連れて行かれ日曜学校に行き、高校までカトリック系の学校だった私自身の宗教的バックグランドにキリスト教カトリックの存在は結構大きく

子供の頃は純粋に神様はいる、と思っていましたし、

(小さい頃は神様がいて〜♪by 荒井由実が流れる)

神の子イエス・キリストをこの世につかわし私たちの罪を贖い、マリア様は見守ってくださるし、という世界を純粋に捉えていたように思います。マリア様の存在がすごく大きいのがカトリック的ですよね。

小学校に上がる前、イエス様が十字架にかけられ亡くなった、という子供向けのキリスト教の本を読んでいて、ある日ハッとして、「これって本当に起こったことなの?」と聞きに行った思い出があります。力強く「そうなの」と言われ、この世のむごさに子供ながら愕然としました。

成長するにしたがい、もの思う思春期を過ごす子だったのでいろいろな情報を仕入れ懐疑的になったりもしましたが

今はそういう気持ちも薄れ、なんとなくそういうものなんじゃないかな、と静かに思ったりします。宗教というのは深く考え込むものではなく縛られるものでなく、もちろん搾取されるものではなく、ただあるべき場所で偶然注がれた祈りを受け入れるものであるような気がします。

自分語りが長くなりましたが、「証し」はそれぞれの個人レベルの信仰について語られていて

ある宗教の姿を生活と即した形で浮かび上がらせていて興味深かったです。それぞれが物語を持っていて、日本人とキリスト教の関係、どのように息づいてきたかを垣間見ることができました。

去年、なんとなく遠藤周作の本をいくつか読んだのも、「証し」から始まっている気がします。

「パチンコ」もある種キリスト教がベースにある物語でもあるんですよね。結婚が叶わない男との子をみごもったソンジャを受け入れ夫となるのは、牧師であるイサク。その行動の原動力となったのはキリスト教的精神だったと思います。ああ、映像化でイサクを演じるなら誰がいいだろう...(話変わるね)

茨木のり子訳編の「韓国現代詩選」は書店で手に取って開いた時

趙炳華の「時間はもっぱらその席に」という詩が出てきて、それで即買いました

時間はのんべんだらり一つの席にいるのです

悠久にただゆったりと一つの席にいるのです

変化し 過ぎ去るのは 人間だけ

時間はとこしえにひたすら一つの席にいるのです

 

韓国文学、ってあんまり読んだことないのでこれから勉強していきたいです。

「1982年生まれ、キム・ジヨン」チョ・ナムジュが話題になったときに読んで以来かも...

「1982年生まれ、キム・ジヨン」は面白かったのですが小説としての形が、日本の小説とは結構違うんではないかなと思い少し戸惑った覚えがあります。そうは言っても、あまり韓国文学のことを知らないので分析する力もなく。

私は当代の好きな作家を挙げろ、と言われたら村田沙耶香柴崎友香川上弘美、とかになるので

そもそもの作家性が割と違いますから、それ由来にすぎないかもしれない。

韓国の現代美術と現代詩には同じ魅力を感じます。日本とは違うけど、ゆるやかにつながり共有してきたような東アジア的な時間の捉え方、というより間隔の取り方?

物の「色」の捉え方、表し方。

2023/11/04

村上春樹の『街とその不確かな壁』を読み終えました。

最初は壁つながりで『進撃の巨人』を思い出したり、久しぶりの村上春樹の小説の文体にわぁムラカミハルキィ…となったり、馴染みのある土地が出てきたり、最後のあたりで、津原泰水の『五色の舟』を思い出したり。近藤ようこの、この短編を基にしたマンガが大好きです。

最近KPOP聴きすぎて疲れたのもあり、BGMはビートルズで。

なんとなく疲れて何も聴きたくないというときでも、聴けるのは私の中で、ビートルズとバッハです。

ビートルズを聞いて感動したのは、当たり前ながら歌詞の意味が分かり、頭にすっと入ってくること、それが心に響くこと。歌詞の意味がわかるってすごいことですよね。KPOPの歌詞も聴きながらすんなり分かるようになりたい。

 

そういえばビートルズも新曲を出しました。

Now and then

ジョン・レノンの残した音源に、まだメンバーが生きているうちに決着をつけられたかのような。

『街とその不確かな壁』も以前発表された中短編がはじまりの、それを一種決着させるかのような長編小説で、

歴史に残るビッグネームが限りあるキャリアの中で、やり残したことに取り組むことができた、幸運のようなものを感じます。

それを享受できるのもまた、幸せなことです。

Now and thenという曲は少し寂しい。当たり前だけどジョン・レノンぽい。そしてそれをビートルズの新曲として出したかったのだろう、というのはとても時間が経った今となっては少し切ない。

時間が経てばあの時ああだったことも、こういうふうにも捉えられる、というのは、最近の私に深く感じられることです。全てにおいて。

そして、未来にはまた異なる見方をされるのだろうとも。

 

最近伊藤潤二による太宰治人間失格』のマンガを読んで、小説の方をまた読みたくなりました。中学生の頃読んだきりだから、だいぶ印象も変わるだろう。

てか、伊藤潤二の『人間失格』の話の展開がオリジナリティありすぎて、あれ、こんな話だったっけ、と一瞬錯覚してしまうほど。でも着地点は同じなのがすごいですね。ちゃっかり、太宰治本人を登場させるところに笑いました。

 

2023/10/28

前回のブログでビッベン・ジヨンのことを書いたら、2日後かな、薬物使用疑いで捜査されているというニュースが日本の情報番組でもちょっと報道されて、ネット上ではもちろん大きな注目を集めていて、タイムリーだな…と思いました。

意外か意外じゃないかって言ったら、後者なのが残念ですが、本人は否定しているようだし、、何とも言えない。

BIGBANGのゴリゴリの曲もかっこよくて好きですが

バラードのLOVE SONGという曲も好きなんですよね。

LOVE SONGは、なんか、こう、昼寝から目覚めて少しうつらうつらしている感覚の世界の曲と個人的に思ってる。

普通にBIGBANGが流行っていて、よく聴いてた頃から10年くらいは経って、今はあまり音楽活動もなく、メンバーもいくつか警察沙汰になったりもして、芸能の人?ってカテゴリーになりつつある感じがするんですが、

あの頃の輝きを思うと、G-DRAGONことジヨンのカリスマ性は群を抜いていたんだな〜と思うことも。ゴシップにも事欠かなかったけど。

2010年、渋谷の街中に大きなポスターが張り出されていて、6人目のメンバーとして山ちゃんが出てたのも面白かったなぁ。