最近、アルバ・ロルヴァケルの出演した映画がいくつか公開された。
イタリアの俳優アルバ・ロルヴァケルは私のお気に入りの俳優で、姉妹のアリーチェ・ロルヴァケルは映画監督。彼女の作る映画も好きだ。
2018年、アリーチェ・ロルヴァケル監督による
イタリア映画「幸福なラザロ」が公開された。
なぜラザロは「幸福」なのか?
私は「愛された者」だから「幸福な」とつけるに値するとされたのだろうと思う。
誰に愛されたか。
そこは少し迷う。
ここで、この映画の中のラザロに限定せず
広く知られているラザロという人物を思い浮かべてみる。
ラザロといえば、新約聖書に登場する人で
イエスの友人であり、イエスはラザロの死を悲しまれ死後いく日も経ったラザロを甦らせた。
そこからラザロは「復活」の意味を持つイメージとともに語られる。
もう1人、別人とされるラザロも聖書には登場する。
「金持ちとラザロ」の話に出てくる者だ。
貧しく酷い境遇にあるラザロを顧みることなく生きた金持ちは死後地獄に落ち、
生前貧苦にあえいだラザロは死後天国で幸せに暮らす。
「幸福なラザロ」という映画には
この2種類のラザロのイメージが混ざって取り込まれているように思う。
聖書の記述に従うなら「イエス・キリストに愛された者」である。
一般的にそうだし、その認識はこの映画においても通用するものだろう。
だがこの映画において、イエス・キリストという存在はあまり押し出されていない。
ということから、この映画の中でラザロは
見る者にとって「何か人の力の及ばないもの」「世界」に愛された者のように映る。
それを「神に愛された者」と言ってもいいのかなぁと思いつつ、そう直接的に言ってしまうと失われるものがあるように感じる。
もっと手につかめない、空気、時間、風、光、そのようなものの中で受容されている特異な存在であるとも。
聖書のなかのエピソードで、好きなものがある。
ルカの福音書 「エマオで現れる」(共同新訳)
二人の弟子がエマオという村に向かって歩いてる。イエスは磔刑に処されたあとだ。
一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
...
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
イエスの復活、そして人の同行者としてともにいる普遍的存在となったことを感じさせる。
イエスが見えなくなったのち、しかし“あの時”「わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉は
見えないけれどもいつもそこにある、ということへの気付きと高揚を静かに伝えてくれて
とてもドラマティックだと思う。
「その姿は見えなくなった」について
山本芳久「キリスト教の核心をよむ」では
ここでは微妙な言い方がされていて、イエスがいなくなったとは言われていない。
英語で言えば「invisible(目に見えない)」のようなギリシア語が使われています。イエスは見えなくなった。しかし逆に言えば、たとえ見えなくても、イエスは常に共にいてくださるということに弟子たちは気づいたのです。
とある。
こういうことを読んだ時に、これまで読んだ「神は愛である」という考えのある小説のことを思い出し、そのときにかすかに捉えた実感についてさらに深めていけるような気になる。
トルストイの「人はなんで生きるか」という小説(中村白葉訳)では
愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから
と結ばれる。
遠藤周作「沈黙」の重みのあるラスト
今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
これらを読んだときの感動は、与えられる側ではなく与える側に根本的に転換する際を目撃できたようなカタルシスであったような気がする。
上にあげた例はどれも私の中でつながっていて、読書で得られる感動のなかでも高次のものであったと思う。
ここで一つ留意するのは
先に引用した山本氏のツイッターにあった言葉
山本芳久 on Twitter: "神は愛であるが、愛は神ではない。とても単純なこの命題を軸にしたキリスト教の入門書をいつか書きたいと思っている。" / Twitter
という点ではないか。
愛は神ではない。が、人間が愛を行う時
神は存在するという感覚だ。
「幸福なラザロ」に話を戻すと、アルバ・ロルヴァケル演じる人物は“復活”したラザロを即座に理解し、手を合わせひざまずく。
彼女は映画内で唯一ラザロの聖性を感じとることのできた特別な人物だ。
農園主による聖書の講読のおかげでもあったかもしれない。
映画『幸福なラザロ』予告篇(4.19公開) - YouTube
アルバ・ロルヴァケルが演じる人物は
人間と自然をつなぐような雰囲気を持つ。
その柔らかできれいな空気が好きだ。
ラザロは時を越えて生き最後は動物に変身する。
人間であった時ラザロは人に馬鹿にされ
頼りなく佇んでいた。この映像が絵画的で美しい。
かつてオオカミの遠吠えを真似したときの世界との一体感を思い出し、走り続けるうちに同一化したのか。最後に人間世界から抜け出すようなさまは価値判断を超えた展開のようにも思える。
例えば、『大人は判ってくれない』で最後にアントワーヌはただ走る。
『フランシス・ハ』でも最後、走り続ける。
さまざまな感情を置いて走る様子は、人間が何かから脱皮しようとするさまを表現しているようだ。
そこから、静止している、せざるを得ない観客が見出すのは、何かを突きつけられるような置いていかれた感覚だ。
この唐突にも思える魔術的描写は説明が難しく
アリーチェ・ロルヴァケルの映画は一筋縄ではいかない。
個人的に小説や映画、詩の非常に純粋で無垢なものに触れたとき心を動かされる。
総合的な要素を踏まえて、それを抽出するのは
奇跡的なように思う。
そして、その先にあるものはなんだろうか。
分からないけれど、それで終わりではないことを気づかせる。