ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」と
ベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺の森」の二本立てを上映していた。
後者は以前見たことがあるけど、異次元の完成度を誇る映画でオールタイムベストの1本だし
前者は見たいと思いつつ見る機会がなかったので、頑張って見に行った。
見た直後の感想としては「ベルリン・天使の詩」の稀有な純粋性と
詩的叙情性の高さに、ただただ感服した。
こういう映画を作れる人って本当に天使の生まれ変わりかと思うくらい、すごい。
何が自分に一番アピールしたかというと
ストーリーよりも詩的な断片が映画を構成する上で先行していて
それが難しい事柄ー「美しさ」とか「本質的な純粋さ」とか「人生の辛さ」ーをやさしく静かに語りかけてくること。
失われたもの、二度と戻らないものへの憧憬のみならず、
この映画は当時東西に分断していたドイツへの深い示唆になってもいるわけだけど、
そのような人の実存に関わる生き方への励ましにもなっている。
そして「天使」であるダミエルは、
作り物の羽をつけたサーカスの空中ブランコ乗りであるマリオンに恋をするのだが
マリオンが初めて画面に現れた時の浮遊のアンニュイな優雅さは
涙が出そうになるほど素晴らしい。
ヴィム・ヴェンダース監督映画「ベルリン・天使の詩」「パリ、テキサス」の二本立てを上映していたので
いい機会だと思って、また頑張って見に行った。
この映画館は音響が抜群にいい気がするので、
「ベルリン・天使の詩」のような語りの映画と相性がいい。
劇中で語られる「子供が子供だった頃…」で始まるペーター・ハントケの詩が
深く染み入るように聞こえてくる時に感じるのは、
世界の全てが手から離れてしまったがゆえに
全てが見えるような気がしてくる不思議な安心感だ。
この映画では図書館が天使のたまり場となっている。
私はたまたまヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」に関する文章、
ドイツにいられなくなった彼が亡命先のパリで、図書館に通いノートをとっている写真などを知っていたので
この映画の「無力な天使」像や、図書館のシーンを見たときに
ベンヤミンの記した「天使」、彼がエッセイなどで描いた、記憶を携え都市に浮遊する幽霊のような視点はすぐに連想し、
それらがこの映画の着想の一つになっているだろうことは想像に難くなかった。
私はこの有名な、天使になぞらえた社会の「進歩」についてのベンヤミンの考え方が好きなので
以下引用しておきたい。
歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。
彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。
その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。
きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたのだろう。
ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。
この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。
私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
ネガティブなようにも思えるけど、どこか希望を感じられるのが
ベンヤミンの文章の不思議なところで、
その「救い」みたいなものは、
それまで見えてなかったもの、見てこなかったものの存在を
まずすくい取るからだろうと思う。
「誰もその名を知らないのだ その絶望の名前を」
「きみは喪失し続ける その喪失にも 名前がないのだ」
「歴史は敗者の苦痛に名前を与えない その絶望に近い名は… …死だ」
という台詞があるけど、
この考え方はちょっと近しいものがあるなと思った。
物事や歴史の暗い面や省みられなかった人々に注目するのは、文学などの人文学の重要な役割だと思う。
そうでないとこぼれ落ちるものがたくさんありすぎるし、歴史の悲劇は繰り返される。
そのようなスケールの大きな話ではなくても
例えば木々の葉に光が当たっているなら、その陰に。
出発点はそれくらい身近でシンプルな話だ。
本当は勝者などいない世界の虚しさ、空虚さの上に、
シニカルな表現が切実になる瞬間、
その徒花の美しさに恒久的な意味が付与されるとき
芸術的な意義が生まれるのではないか。
ところで、映画に登場する「ホメロス」という老人はまさに時空を超えたホメロスそのものだと思っていたけど
町山智浩さんの映画解説を聞くと彼が「ベンヤミン」であるという解釈が鉄板らしく
なるほどと思った。
ベンヤミンにしては老人すぎるなと思ったけど、そう思うと確かに
「ポツダム広場で、云々」というセリフの整合性が出てくる。
この映画では最後に
「かつて天使だった全ての者へ捧ぐ
特に小津安二郎、フランソワ・トリュフォー、アンドレイ・タルコフスキー」という文章が映される。
ああ彼らは天使だったのか、という安堵と納得、
それは暗い面を踏まえた上で映画そのものへの揺るぎない肯定であろうと思う。