「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」
フランス・ヌーヴェルヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールは同じくヌーヴェルバーグを代表するフランソワ・トリュフォーの死後、この言葉を残した。
トリュフォーは84年に54歳で亡くなっている。
二人は当初は親しくしていたが後に決別、上記の言葉はトリュフォーの死後数年が経ってから書簡集に寄せられたものだ。
以前早稲田松竹でトリュフォーの映画を観た後、電車の中でゴダールのこの言葉を思い出し、確かに映画作家にとっての「死」とはなんだろう、と思った。
作品は観る人がいる限り残るし、今は亡き映画監督が映画に残した精神性はありありと感じられる。トリュフォーの映画を観た後、トリュフォーが死んだことは考えない。彼の映画に出てくるもののことを考える。
もちろんゴダールの言葉はこういうことを言っているのではなくて、近しい立場にいた才能のある者同士にしか分からない理解、生死を超えて残る悟りのようなものかな、とも思う。
すこし寂しくすこし感動的だ。
ともあれゴダールのこの言葉は印象に残った。死者は常に、生きているものにとってしか存在しないのだ。
先日4ヶ月ぶりに映画館に行った。
池袋の新文芸坐でトリュフォーの「夜霧の恋人たち」「大人は判ってくれない」を観た。
どちらもトリュフォーが自らの分身として創り出したキャラクター「アントワーヌ・ドワネル」を主人公とする映画だ。
アントワーヌを演じるジャン=ピエール・レオは、トリュフォーにそっくりで、自らに似た俳優を起用して自らの子供時代・青年時代を再構成して映画を作るというのはどんな心持ちなんだろう、と思う。
余談だけど、俳優としてジャン=ピエール・レオの映画における佇まいは純粋に超いい。
「大人は判ってくれない」の主人公アントワーヌ・ドワネルは学校でも家庭でも何かもかもうまくいかない。
原題を直訳すると「400回の殴打」。
単純にいうと家庭崩壊した非行少年が最後は施設送りになる話なのだが、時折出てくる軽快な音楽や元気に走るジャン=ピエール・レオ、何かをじっと見ている時の彼の透明な視線、といった心が軽くなるようなシーンが映画全体の暗さや悲しさとうまくバランスを取っている。
家では父も母も自分を省みているとはいえず、勉強に集中できず先生からは罰ばかり、いたずらをし盗みをし、タバコを吸い酒を飲む。
笑っちゃうのは鑑別所みたいなところに入っても、ポケットから葉を取り出し紙でくるくると巻き火をつけて吸っている。
出口が見えないアントワーヌを映す映画の視線は優しさと無関与が感じられて切ない。
警察の車に乗せられてるアントワーヌはじっと道路を見ているが、その目からは涙が流れている。
私はそれを見た時に、強いように見えたアントワーヌの悲しさが迫ってきて涙腺が緩んだ。
施設での面会で、母親から見捨てられることが決定的になったアントワーヌは、サッカーの試合中に隙をついて逃げ出す。
若すぎて何も見えないけれど、何かせずにはいられない。ただひたすら何もない田舎の道を走る。
彼はそこで初めて海を見る。
ひと気がなく波の音しか聞こえないような寂しく大きな海。まだ少年の浅く小さい足跡を残す砂浜。
アントワーヌは海辺からカメラを見るその瞬間、我々は初めてアントワーヌと目が合う。苦々しいようなまっすぐな視線を残して、この映画は終わる。アントワーヌは何を感じているのか?何を考えているのか?
ジャン=ピエール・レオとトリュフォーの奇跡的な出会いの映画は、トリュフォーにとって自らの子供時代の供養であり、全ての子供時代を持つ人間への失われた感情と景色の引き金となる。