僭越ながら、例えば普段本を読まない人に、オススメの本を聞かれたら
アゴタ・クリストフ『悪童日記』とベルンハルト・シュリンク『朗読者』を挙げると思う。
理由は「読みやすい」「面白い」(そして「おそらく手に入れやすい」)ということに尽きる。
だがそれに加えて、私が文学に寄せる信頼、文学の力を信じる理由に「普遍的な人の弱さ、世界の不条理さ、理解し難さ」をぴたっと感じさせるというのがあるが、それを両立させているというのがある。
そしてこの二冊を並べてみて、
・戦争下におけるパワーを持たない人間の物語であること
・人物が言葉を獲得する途上にあること
が共通していた。
今日夜のニュースを見ていたら、終戦後も戦い続けることを指示し、結果的に沖縄における犠牲者を増やしたという司令官について取り上げていた。
彼の孫は祖父についてリサーチをしていくと、部下を始め周囲の人々から慕われていた優しい軍人という人物像が浮かび上がったという。
一方で終戦間近、その司令官は軍本部から本土が攻撃される前に少しでも沖縄で敵を足止めさせ時間を稼ぐよう命令されていたという。
彼がどのような思考の末に、そのような苛烈な指示を人々に出したのか。
様々な思いや苦悩の末か、信念を持ち迷うことなくか、ただ上からの命令に従ったのか、逆らうことはできずか、その辺のことはもう何も分からないし、そのようなことを類推することも正直失礼な気がしてしまう。
なぜならこれは本当に難しいことだから。もし私だったらどうするか。あなただったらどうするか。
答えは出なくても、考えること、どうしようもなく不条理な状況がこの世にはあること、普段から社会の中で、浅薄な理解のもと安易な認識にとどまっていると分かったつもりで分かってないことがたくさんあること、閉塞的な状況で人間が集まった時の同調圧力や残酷さについて、頭に留めておくことは大事なのかなと思う。
少し話がそれたが、今回ブログで取り上げようと思っている小説『朗読者』もそのような視点を含んだ内容となっている。
ベルンハルト・シュリンクによって書かれ1995年にドイツで出版されたこの小説は、世界的なベストセラーとなり、2008年にはケイト・ウィンスレット主演で『愛を読むひと』というタイトルで映画化された。めちゃくちゃメジャーな位置にある小説だね。
ストーリーは、高校生の少年ミヒャエルが母親ほど年の離れた女性ハンナと恋に落ちることから始まる。
ミステリアスなハンナだが、ミヒャエルの持つ本に興味を持ち読み聞かせてくれと頼む。それからミヒャエルは会うたびにハンナに本を朗読する。
愛し合っていた二人だったが突然ハンナは失踪し、ミヒャエルは行き場のない思いを抱えたまま大学に進む。
ちょうどその頃、ナチス・ドイツの犯罪をドイツ人自身で裁くという動きが国内で強まり、法学専攻であったミヒャエルはその裁判を傍聴する。そこで被告人席にいたのはハンナだった。
- 作者: ベルンハルトシュリンク,Bernhard Schlink,松永美穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/05/28
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 104回
- この商品を含むブログ (168件) を見る
以下、ストーリーの核心に触れる描写あり。
ハンナは付き合っていた頃から不可解な点の多い女性だった。
裁判を傍聴していくうちにミヒャエルは気づく。彼女は読み書きができない文盲だと。
そしてそれが、彼女にとっては人生を捨ててでも人に知られたくない弱みであること。
なぜ文盲であることがハンナにとってそれほど恥ずべきことなのか、この感覚は文字を読める人間には想像はできても、結局は分からないと思う。
だが、その思いを切実なものとして真剣に尊重するべきだとも思う。人には絶対に他人には理解できない個別の尊厳があることは確かだ。
だから、「なぜ恥を捨ててでも文盲であることを周囲に告白しないのか」という問いは意味がない。
ハンナが裁判で被告人席におかれたのは、強制収容所で看守をしていたなかで多くの命が失われたことによる。
社会が戦争に向かっていくなか、書類を読めないハンナにそう職の選択肢が多かったとは思えない。政治的な懸念が頭をよぎるほどの教養や余裕があったとも思えない。
結局のところ無力な市民は生きるために働かなければならない。
彼女が強制収容所で働き指示に従ったことで、多くの収容者を死なせることに加担した。
裁判の中でハンナは時折問いを投げかける。
「わたしは...わたしが言いたいのは...あなただったら何をしましたか?」
それはハンナの側からの真剣な問いだった。彼女はほかに何をすべきだったのか、何ができたのか、わからなかった。
一介の看守に過ぎない女に何ができたのか、という思いと、結果の重大性が交差する。
裁判はハンナの不利に進み、彼女は刑務所に入る。
ミヒャエルは様々な本を朗読しカセットテープに録音し、ハンナに送り始めた。何年も何年もそれは続いた。
ハンナはそれを通して文字を書く練習を始める。
刑期が明けハンナが出所する段になったとき、ミヒャエルは彼女の身元引き受け人となり迎えに行く。
だが出所の前日、ハンナは自らの命を絶っていた。
すごく皮肉で悲しいことだけど、ハンナは言葉を知ることで絶望を知ったように思われる。言葉によって人の精神は生きることも死ぬことも左右されてしまう。そして言葉によって人の精神は自立する。
出所直前にハンナがミヒャエルに話した内容が非常に印象的だった。
わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなってしまったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。
誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。
ただ死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。
その場に居合わす必要はないけれど、もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。
刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに
「死者にはそれができる」「死者は理解してくれる」
これは言葉の持つ精神への作用でとても重要なものだと思う。
言葉を知ることで、死者がハンナ自身に語りかけてくるようになったのだ。見えない世界・他者の視点を想像できるようになり、いかなる精神状態になったのだろうか。
そこでハンナが自死を選んだのは、人間存在の脆弱さと儚さに悲しくなるとともに、どこか納得してしまったのだった。
文学がもたらすものは驚くほど豊穣だが、時に過酷で耐え難い。しかし現実はもっと残酷で悲惨だ。そして巨大な多面体であり、決して分かり合うことはない。
戦争という記憶の中で、「死者はいつまでも若い」(アンナ・ゼーガース)