hiro

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続けるのが大事

続けることが大事ブログ。

すっかり秋だ。

秋の日はつるべ落とし、という言葉を知った時は現象に対してこんなにぴったりとした言葉があるのか、と思ったし、どこか世界の果てで小人が陽のつるべを落としている様子を想像した。

 

夜は虫の音が聞こえ、風も優しく、少しずつ冷たくなっていく。

秋の雨は静かに冷たく降り、雲が立ち込め灰色がかった空から、窓に水滴が落ちていく様子を見ると、世界に閉じ込められているような気がする。

 

MY LITTLE LOVERの「Hello,again」に出てくる

「雨はこの街に

降り注ぐ

少しのリグレットと罪を

包み込んで」

という歌詞は90年代特有のキザな歌詞だなと思うが、こういう空気の雨が降るとしたら秋じゃないだろうか?

少しのリグレットと罪、ってすごいよね。

これが、少しの後悔とギルティ、だったら全然違うんだよね。

てかギャグだよね。

私は、90年代も2000年代も好きで、それは子どもだったからなんだろうなぁ

この時代の雑誌も好きで、いまだに捨てられない。

あの頃の胸いっぱいの空気を永久保存しておけるような気がする。

 

SEVENTEENは新しいミニアルバムが出まして、とりあえず耳に慣れるまで聴き続けています。

Apple Musicで早速配信されているし、MVはYouTubeで。番組はAmazonプライムビデオで見られるやつもいくつかあり。そう今に至るまで全然新たにお金を出していないんですよね。表紙になっている雑誌を買ったくらい。出した金額=ファンの深度というものではないにしても、なんかすいません、って感じ。

(単にお金を出して得られる特典の仕組みが全然分からないだけ)

BIGBANGの頃から思ってたけど、韓国の音楽ってミニアルバムいっぱいあるよね

日本でいうアルバムがほぼない?ような気がする。

この辺りのビジネススタイルの違い、少し気になる。

韓国が生んだ大スターBIGBANGのジヨンさんは元気でしょうか…(話が飛ぶ)

 

春と秋が好きで、終わっちゃうのが本当に切ない。

というか、今年夏がえげつなく暑くて長くてどうやって生きていたのかよく分からない。

ずっと時間がたっぷりある感覚で本を読んだりしていたけど、実はもう時間は限られてるんだろうか、時々ひやりとします。

連想するのはインゲボルク•バッハマンの「猶予された時」という詩

 

さらに苛酷な日々がくる。

取消しを猶予されていた時が

地平にあきらかに見えてくる。

まもなくおまえは靴紐を結び

沼地の屋敷に犬たちを追いかえさねばならぬ。

 

そういえば、サンローラン展がいま国立新美術館で開催されていて見に行きました。

ヘルムート•ニュートンのサンローランとピエール•ベルジュの写真がよくて、引退会見の映像でのサンローランの「私の服を着てくれた女性たちに、ありがとう」という言葉が残っている。

当たり前のことだけど、この人は女性の服をずっと作ってくれていたんですよね。作ってくれた、という表現をするのは、それまでの女性の在り方を確実に変える服作りをしてきたんではないかな、と思ったから。

サンローランの服持ってないですけど、この人の作る服のスタイルは今にかなり繋がっていると感じる。

そして女性というものの可能性を切り拓く服を提示していたんだなぁ、と。

サンローランのタキシードやトレンチコートが本当にかっこいいと思うんだけど、それは男性が着る物を女性に着せたような形ではなく、女性が自然にそれを身に纏うようなスタイルで、美しさを引き出す先鋭だったのだと。

ほぼ花だけのウェディングドレスはすごいよね。

 

 

2023/10/22

今日も義務感で書き始める。続けることが大事。

このブログには下書きがいくつかあるんだけど、その時何を書こうとしたか、今となってはよく分からないものが多い。

以下はその一つ。

 

ゲルマンの血をひくといわれる、ミラノを中心とするロンバルディアの人々は、イタリア人に多いシニカルなものの見方がもっとも欠落した人種である。それが東京とおなじく、近代産業の発展の原動力となったことはいうまでもない。

 

湖を背に、グレイのモーニング、おなじ色のシルクハットをこわきに抱えた瀟洒な青年貴族と、おばあさんが結婚のときに着たという、豪奢なレースの衣装をまとった、うつくしい花嫁の写真は、ヴィスコンティの映画の場面そのままに、完璧で空虚だった。

 

いま、桃やオレンジの

このかおりが、

おまえをまどわせ、

菩提樹

ものうさが、おまえをいざない、

なにも考えずに、この街を

ただ歩きたいと、

何も忘れて、

群れ咲くこどもたちの仲間に入れたらと思う。

 

これは須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」の引用だと思う。

シニカルなものの見方の欠落した人、というのは気になりますね。

 

今日はとても天気が良い。

雲一つない青い空、文字通り。

日差しが暖かく、暑くも寒くもない。

 

音楽を聴きながら歩く、という行動が好きで

時々気に入った風景を見つけて、写真に撮るのも好き。

撮った写真は我ながらいいと思う。

 

約束はしたけどたぶん守れない ジャングルジムに降るはるのゆき

 

最近好きな穂村弘の短歌。

ジャングルジムに降るはるのゆき、薄ピンク色で想像されるのは、共感覚的なものだろうか。

 

最近合間を縫ってもっぱら、SEVENTEENの情報収集とか曲を聴いたり映像を見たり、などでどんどん詳しくなりつつあります。

最初は13人覚えるのは無理…と思いながらも、ジョンハン目当てで見ていたのですが

いまは自信を持って誰が誰、と言えます。

最初は、13人いるとパッと見た時にどこにジョンハンいるか分からないまま、映像の場面が切り替わっちゃって、

「え、どこにいたの…」ってなったり、別の人をずっとジョンハンだと思って見ていて、最後にあれ、全然違った、というふうになったりしてたんですが、ポジションや役割、空気感から、そういうことも少なくなりました。

この辺り、動体視力や映像分析力の向上につながっている気がします。

 

また特有の用語もちょっとずつ覚えていって、そうすると自分の見たい映像や情報にたどり着きやすいんですよね。

メンバーも一人一人覚えていくと、皆にいいところや個性が見えてきて、箱推し的な愛着が湧きますね。

しかし、本当に情報が多い。めちゃくちゃメディア露出が多いままずっとここまできているわけだから、人間としてはすごく大変なんじゃないかなぁ、、と思います。

New Jeansも好きで彼女たちを見ていても思うんですが、好きなもの食べて何も気にせず休める時はゆっくり休んでほしい、という気持ちになるのは、年をとったからでしょうか。

あとエスクプスの魅力の不思議をもっと自分の中で整理したい。

あと今、順序よく曲を好きになっている途中なので、それぞれの自分の好きなところを整理したい。

 

ここまで書いて、これって今まで私が好きになったものに対して行ってきたことを繰り返しているな、と思います。

 

別件、理論物理学者の佐治晴夫さんの文章が好きで、連載エッセイを毎月楽しみに読んでいます。

2023/10/21

このままではブログが自然消滅してしまうとの謎の危機感(別に消滅しても何も困りはしませんが)により、義務感のみで書き始めています。

 

昨日のMステスペシャルが

心に残る歌詞特集、みたいなので

私も個人的に好きな歌詞のことを考えていました

特に番組をちゃんと見てはいなかったのですが…

というかあんまりピンとくる曲が出てこず…

 

あ、あのちゃんが神聖かまってちゃんのの子の曲を歌ってた!

よかったです。

「僕は頑張るよっ」もいいですよね。

かまってちゃんは好きなバンドです。

2010年ごろ、「ロックンロールは鳴り止まないっ」などが注目を集めていたころ、の子さんの様々な行動が、本当に「今」しかないような、この人大丈夫かな、と心配もしていたけど、なんだかんだ今も生きてて音楽活動をしていて、なんかこう…時間をかけないと生まれない感動が今、曲を聴いていると生まれてくるんです。

進撃の巨人」アニメの曲もマンガを読んでいる間、聞きまくっていました。

進撃の巨人」は読み始めて一度挫折してたんだけど、今年の夏全巻読みました。面白かったです。

これが台湾を想起するみたいな評がちらちら見えていたんですが、どの点においてそうなのか、なるほど、と分かりました。

私が一番好きな場面はリヴァイがエルヴィンに

「夢を諦めて死んでくれ」

と言うシーン。

あれはこのマンガの悲壮の一つの頂点で、ため息が出ました。

現実で起こっていた“特攻”を美化する気は全くないけど、フィクションにおいて、この動きを、読者として何も言えませんし、肯定も否定もできる次元ではない極限の世界線をここまでじっくり作り出しているのがすごいなと。

 

あのちゃんの「ちゅ、多様性」がエンディング曲に使われていたチェンソーマンも漫画とアニメ、どちらも読み・見ました。アニメ、気合い入ってる。

マンガにおいてたまに現れる「強さ」のある女キャラが好きで

岩明均の「寄生獣」の田村玲子、「ヒストリエ」のオリュンピアスみたいな感じ)

結構マキマは好きでした。人間の心がない故の空っぽの絶対的強さというか。

 

ああ、そうだ、好きな歌詞の話。

松任谷由実の「Voyager〜日付のない墓標〜」にある一節

自分のためだけに生きられなかった淋しい人

がすごく好きです。

エヴァンゲリオンの映画で流れた時に、ここにすごくぐっときたんですよね。

亡くなった人に対して語りかけているような気がするんですけど、

自分ために生きられなかった、優しい人ではなく、淋しい人なんですよね。

例えば自ら命を絶った人なのかな、と思い、自分のためだけに生きていてほしかった、けどどうしようもなく優しく、それができなかった、淋しい人、と憐れみの視線が何ともいえない。勝手に自分の中でストーリーを想像しているだけだけど。

「証し」という日本のキリスト教徒へのインタビューを編んだ本があるんですが

そこである人が、困難に直面したとき思うのが

主よ、私を助けて、ではなく

主、憐れめ、だ、という話が印象に残っていて。

この世界は人間にはどうしようもない悲劇がたくさんあって、どうして神様はこんな試練を与えるのか、って別に宗教を持ってなくても思うときはあると思います。

でも、神様は助けてくれるものではなく、人間を憐れんでくださるもの、という考えは結構しっくりきます。

ともにいてくださる同行者のようなイメージ、というのは遠藤周作の著作から結構大きなイメージを得ているんですが、そばにいてくれる、というイメージは静かな癒やしとゆるしがあるような気がします。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう、わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

という有名な一節にもつながるような。

 

最近の本と曲

このブログの前に書いていたLineblogがいつのまにかサービス終了していて

書いていた記事がまるっと消えてました。

そういうこともあるよね、って気持ちと

残念な気持ちの両方。

 

どんなこと書いていたんだっけ、

このブログも久しぶりになっていて

何をどう書いていたか、初心もすっかり忘れました。

 

最近は村上春樹の『街とその不確かな壁』と川上弘美の『三度目の恋』を同時並行に読んでいて

どちらも読み始めればすぐにスッとその世界に入れるので、優れた作家だなぁと思っている。

 

最近、漫画もかなり同時並行でいろんなのを読んでいるせいか、頭の中で物語をスイッチするチャネリングがうまくなったような気がします。

あと意外にそれまで読んだ物語の設定や世界、人物たちを忘れないんだな、と自分に感心しています。

 

『街とその不確かな壁』は借りた本なのに、かなりスローペースで読んでいて(ごめんなさい)

『三度目の恋』の前はミン・ジン・リー『パチンコ』を同時並行で読んでいました。

『パチンコ』を読んだ方は知っていると思いますが、すごく面白い物語です。

文庫だと2冊組、4世代にわたる在日コリアンの物語なので、読みながら大河ドラマを見ているような気持ちにもなったり。

第一章の本当に最初の節から、私は泣きそうになったんですが、そういう人のつーんと切なくなるような感慨を詰め込んだような描写が多く。

在日コリアンに関する物語は多いと思うけど、『パチンコ』の一つの特別な点は書き手が韓国系アメリカ人であることかな、と思います。ある意味で第三者であり、俯瞰的に見られるからできる展開だろうか、と思うところもあったり。

本当によく調べられ考えられた物語だな、と思います。これがアメリカで評価されたのは、日本における在日という局所性を伴う人々の歴史、というもの以上に歴史に翻弄される移民の姿が普遍的にこたえるからでしょうか、、?

私が意外に思うのは、本当に物語が、今まで読んだり映像で見てきたものと同じレベルで、日本の戦前、戦中、戦後の細かい空気を表してるように見えて、これが日本でも韓国でもなくアメリカで生まれたというのが、すごいなと。

 

海外でドラマ化してるみたいだけど、それも見てみたい。やっぱりこの物語のボリュームは、映画ではなく資金が潤沢にあるところが作るドラマだと思う。

また自分の中でこの人にこの役を演じてほしい、という妄想をするのも楽しい。

ただ主人公ソンジャに合う人がなかなか思いつかないんですよね。

 

時々思い出して考え込むのが、ソンジャの長男ノアの物語。あまりこの部分について描写がない気がして、彼の苦悩を考えようとすると、手探りの気持ちになるんですが、考えれば考えるほど、暗いところに落ちていくような。

 

話変わって

最近SEVENTEENを聴いていて、おっと思ったのが

『24H』という曲。

まるで宇多田ヒカルを彷彿とさせる、アンニュイで繊細なメロディーと歌詞

実は時間って平等じゃないんだ

与えられた永遠じゃ足りない

君を想う時間が

 

[MV]SEVENTEEN - 24H - YouTube

 

これを聴いた時、びっくりしました。哲学じゃんか。

韓国語バージョンの歌詞を和訳してるものを少しネットで検索すると、少し違うけど大意としては同じなのかな、という感じ。

 

「実は」と、秘密を打ち明けるようにいうのは

「時間は平等じゃない」というあまりピンとこないけど不思議と気になるフレーズ。

「与えられた永遠じゃ足りない」

この言い方いいですよね。「永遠」と言っているのに

「足りない」。足りないはずはないのに足りない。

何で?「与えられた」永遠だから?与えられた永遠って何?人に与えられる時間に永遠はないのに。

しかも何をするのに足りないかというと、「君を想う時間」。

君というものへの超越性を示す以上に、メビウスの輪のような不可解な永遠に囚われたように感じられる。

でも、結局、時間は平等じゃないという主観に入っていくんですが、私も時間は平等じゃないと思いますよ。

どこかで分かっていたことが、打ち明けられたような。

 

何となく個人的に宇多田ヒカルの歌詞も連想して、宇多田ヒカルの歌詞に対して自分が求めているもの、すごいと思っていることも意識したのでした。

『嫉妬されるべき人生』あたりを何となく思い出す。

 

SEVENTEENは13人いるグループで、ライブ映像を見ていると人数の多さを生かした演出が面白いなと思います。

個人的に気になるのは、ジョンハンとエスクプス。

これはNEW JEANSのミンジとダニエル、BTSのVとジョングクにも通じるもので、あくまで個人的な感じ方なんですが

安定して素敵だな、と思うメンバーが前者で

何だか危うくて華やかでステージで映えるべき人だなと気になるのが後者。

私はアイドルに対して2種類の感情があるみたい。

ジョンハンはサンローランのショーなどを見に来ている写真などを見て、びっくりするような美人な男の人だな、と思いました。日本の雑誌の表紙にもたびたびなってるし。ステージでも輝いてますね。

エスクプスは80年代ぽさと現代ぽさをミックスしたルックスで、パフォーマンスに野蛮さと気品が両立していてステージで映えるんですよね。

両人とも、ステージでの表情もいいですね。

 

Cocco

Coccoの曲を聴くたびに

印象が新しくなる

 

私がCoccoを知ったのは中学生のとき読んだ

南条あや卒業式まで死にません」という手記でだった。99年に18歳で、自殺と言っていいのか、早逝した彼女の、自傷行為を含め日々を綴ったなかでCoccoのライブのビデオを見る箇所などがある。

彼女の好きなCoccoとはどんな歌を歌っているんだろう?というところから始まり、CDをほぼ全部聴いた。

それは2000年代半ば、ちょうど2001年に「焼け野が原」を歌い活動休止していたCoccoがまた歌を人々に届け始めていた頃だった。

 

最初のとっかかりから

どこか人を不安定にする希死念慮に近い存在という先入観があり、それは私の中に根強く続いていた。

 

それから20年経って今も折に触れ聴いていて思うのは

Coccoはとてもパワフルで前向きで未来に向かっている、ということだ。

それは長い時間を経ないと分からないことだった。

 

Coccoの曲の切なさは

前世の夢を見て涙を流しながら目を覚ます、ようなところだと思う。

(実際に前世の夢を見たわけではないけど)

Coccoの歌詞の世界は原始的な自然と同一化した人間の世界、まっすぐな感情、失われた純粋な世界を

こちら側から懐かしんでいるような弔っているような感じがする。

 

それは現在の世界を死に導くものではなく

今を生きているということで

希死念慮とは反対のものだということに

やっと気づけたような気がする。

 

デビューして20年を超え、昔の歌もいまの歌も歌っているその声を聞けていなければ分からないことだと思う。

時間と存在はセットであって

その力強さを感じなければならない。

 

 

ただずっと分かっていなかったわけではなくて

まず私が初めてCoccoを聴き始めたとき

ユニットでの活動や活動再開などがあり

彼女は第二段階にいたと思う。

 

それまでに出していた曲にも、とっかかりを感じる部分はあり

そこで感じていた小さな違和感を大事にせず

どこか最初の先入観を捨てきれていなかったんだと思う。

 

重ねていうがCoccoの曲は

切ない夢を見て涙を流しながら目を覚ます感覚に似ている。

その、水が流れるようなエモーショナルな感じが好きだ。

そして、そのアンニュイさとともに生きていけるようになったら

その隠された前向きさに気がつかなくてはいけない。

 

Coccoの90年代的な受容を引きずることなく

当時の歌もいまの歌も

その美しさ、強さに気がつかなければならない。

 

映画「私はあなたのニグロではない」

2022年はドキュメンタリーシリーズや、映画というにはやや短いようなドキュメンタリーを見ていたような気がする。

これって映画にカウントしていいのかな?と迷いつつ、映像作品における映画ってなんだろう?と境目がよくわからなくなったりした。

ドキュメンタリーを見るのは好きだと実感するが、醍醐味は、真なる叫びが吐露される瞬間だと思う。

 2時間超見ていて、その瞬間が5秒あれば、価値ある鑑賞だったと思う。

インドネシアにおける1965年の大虐殺を描いた「アクト・オブ・キリング」。

殺した人間の開いた目を閉じてやらなかったことを後悔する人の言葉が

どうも思い出される。そういう瞬間がある。

2022年最後に見た映画は「私はあなたのニグロではない

これはドキュメンタリー映画と言える。

断固たる意志の感じられるタイトルが気になっていたが

見る機会のないまま過ぎていたが、ちょうどサブスクリプション・サービスに入っていたので見ることができた。

www.magichour.co.jp

 

作家・ジェームズ・ボールドウィンの原稿をもとに1960年代からのアメリカにおける黒人への人種差別の歴史と戦いを解いていく。ラウル・ペック監督。

ボールドウィンの語りはサミュエル・L・ジャクソン。なのでまず語る声がいい。

各章の最初に出るタイトルのアートワークがかっこいい。

エンディングに流れるのはケンドリック・ラマー。

このタイトルっていうのは、原題も「I AM NOT YOUR NEGRO」でそのままなんだけど、どういう意味なんだろうと思いつつ、なんとなく言いたいことは何も知らなくても伝わると思う。

「私はあなたの〇〇ではない」と言うとき、〇〇が「あなた」にとっての都合のよい何かであり、「私はそうではない」「拒否する」という意志表明だろう。

「ニグロ」という言葉の背景、持つ力を、当事者ではない私が深く本質的に悟ることはできないと思う。

一般に映画では、より差別的な、いわゆるNワードを発することで関係が決裂したり、暴力沙汰になるシーンがあったり、またラップでは様々な文脈でよく聞こえてきたりする。使う者の責任が問われる罪の重い言葉である。

それほどではないにしても、まあ好ましくない言葉だろう。

このドキュメンタリーを最後まで見てわかるんだけど、

白人が「ニグロ」を作り出してきたんだ、というのがボールドウィンの論。白人は「ニグロ」を必要としてきたが、何のためになのか考えろ、そんなものは存在しない、私たちは人間だ、その概念を捨てろ、ということだと思った。

ボールドウィンは、フランスに住んでいたが

アメリカで白人が通う学校に唯一の黒人として入学した少女、ドロシー・カウンツの写真、周囲の嘲笑(まあびっくりするような単純で根強い差別意識が感じられる)のなか存在する写真を見て、アメリカに帰らなければと思う。

そもそもなぜ国外に移住したかというと

アメリカを離れられるなら、香港でもどこでもよかった。街を歩いていて殺される恐れがないからだ」と答える姿も映画にはある。

アメリカでマルコムXキング牧師、メドガー・エヴァースといった当時の黒人運動のリーダーたちと交流を持った。彼らは皆暗殺されている。

ボールドウィンはこのような歴史の目撃者であるわけだ。彼らについて語ると同時にアメリカにおける黒人差別の歴史、映画における黒人の表象、社会における認識とそれをどう変えていってほしいか、ということをその知的な語り口で力強く述べる。

近年もBlack Lives Matter運動が高まっているが、つまり現状は何も変わっていないということだろう。生命と安全を保障されない環境で人は生きていけない、変わっていかなければいけない、そのために立ち上がる。その現実的な行動に対応して、思想も生成されていく。

なぜ、このような環境になったのか?差別者は被差別者に対してどのような見方をしているか?その考えはどのように生まれ育っていったのか?

それを考えない限り、何も変わらないのだと。

この映画は黒人差別に特化したテーマだが、引用される映画にひとつ、コロンバイン高校での銃乱射事件を描いたガス・ヴァン・サント「エレファント」があった。ここで銃乱射を起こすのは白人だが、学校社会で差別され疎外された存在としてこの映画を取り上げたのだろうか?

ここで見てるものとしては、思考の広がりを要請された気がしたが、まあ言うまでもなく

差別というのはどこにでも存在している。日本の社会も、歴史も差別に満ちている。

私という人間も差別的意識を知らず間にたっぷり育成され、それを発露し、いつの日か気付き見方を変えていたりした。生きているといろいろ思うところがある。差別する側であり、される側でもある。気づいていないところもまだまだあるだろう。

これは教育の限界であり、出発点である。

私はあなたのナントカではないんだよ、というフレーズにより。

アイドル

昨日King & PrinceがTraceTraceをパフォーマンスするのをテレビで見ながら

「いつか思い出してここにいたこと」というサビの歌詞がこの人たちのシチュエーションと重なっているように思えて切なくなった。

平野紫耀の華やかさと髙橋海人のダンスの上手さが好きだった。

この5人でキンプリとしてパフォーマンスしていたことが過去のことになるんだなぁ、としみじみしてしまったのだった。

どうにかならなかったのかなぁなどと思うけど

数十年後振り返って、よかったね、と思うようになってほしいと思う。

 

Snow Manのラウールのパフォーマンスも

好きだ。

ルックスが現実離れしていてダンスが上手くて見ていて引きこまれる。

マイケル・ジャクソンみたい。

 

最近カタールW杯の開会式でBTSのジョングクがパフォーマンスしていた。

この人の華やかな雰囲気も抜きん出てると思う。

テヒョンやRMも好きなんだけど、

MVなどで見るジョングクの存在感はなんとも言い難い、すぐに散ってしまいそうな危なっかしい一瞬の華がある。

 

Butter(Hotter Remix)のMVで

前半カメラに向かっておどけるように動き、くるくると表情を変えるジョングクを見ていて

説明するのが難しい感動があった。

徒花のような華やかさというか。

『パリ、夜は眠らない』というドキュメンタリー映画でのドラァグクイーンたちを思い出したり。

そういうドラマを感じさせる魅力がある。