hiro

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映画「私はあなたのニグロではない」

2022年はドキュメンタリーシリーズや、映画というにはやや短いようなドキュメンタリーを見ていたような気がする。

これって映画にカウントしていいのかな?と迷いつつ、映像作品における映画ってなんだろう?と境目がよくわからなくなったりした。

ドキュメンタリーを見るのは好きだと実感するが、醍醐味は、真なる叫びが吐露される瞬間だと思う。

 2時間超見ていて、その瞬間が5秒あれば、価値ある鑑賞だったと思う。

インドネシアにおける1965年の大虐殺を描いた「アクト・オブ・キリング」。

殺した人間の開いた目を閉じてやらなかったことを後悔する人の言葉が

どうも思い出される。そういう瞬間がある。

2022年最後に見た映画は「私はあなたのニグロではない

これはドキュメンタリー映画と言える。

断固たる意志の感じられるタイトルが気になっていたが

見る機会のないまま過ぎていたが、ちょうどサブスクリプション・サービスに入っていたので見ることができた。

www.magichour.co.jp

 

作家・ジェームズ・ボールドウィンの原稿をもとに1960年代からのアメリカにおける黒人への人種差別の歴史と戦いを解いていく。ラウル・ペック監督。

ボールドウィンの語りはサミュエル・L・ジャクソン。なのでまず語る声がいい。

各章の最初に出るタイトルのアートワークがかっこいい。

エンディングに流れるのはケンドリック・ラマー。

このタイトルっていうのは、原題も「I AM NOT YOUR NEGRO」でそのままなんだけど、どういう意味なんだろうと思いつつ、なんとなく言いたいことは何も知らなくても伝わると思う。

「私はあなたの〇〇ではない」と言うとき、〇〇が「あなた」にとっての都合のよい何かであり、「私はそうではない」「拒否する」という意志表明だろう。

「ニグロ」という言葉の背景、持つ力を、当事者ではない私が深く本質的に悟ることはできないと思う。

一般に映画では、より差別的な、いわゆるNワードを発することで関係が決裂したり、暴力沙汰になるシーンがあったり、またラップでは様々な文脈でよく聞こえてきたりする。使う者の責任が問われる罪の重い言葉である。

それほどではないにしても、まあ好ましくない言葉だろう。

このドキュメンタリーを最後まで見てわかるんだけど、

白人が「ニグロ」を作り出してきたんだ、というのがボールドウィンの論。白人は「ニグロ」を必要としてきたが、何のためになのか考えろ、そんなものは存在しない、私たちは人間だ、その概念を捨てろ、ということだと思った。

ボールドウィンは、フランスに住んでいたが

アメリカで白人が通う学校に唯一の黒人として入学した少女、ドロシー・カウンツの写真、周囲の嘲笑(まあびっくりするような単純で根強い差別意識が感じられる)のなか存在する写真を見て、アメリカに帰らなければと思う。

そもそもなぜ国外に移住したかというと

アメリカを離れられるなら、香港でもどこでもよかった。街を歩いていて殺される恐れがないからだ」と答える姿も映画にはある。

アメリカでマルコムXキング牧師、メドガー・エヴァースといった当時の黒人運動のリーダーたちと交流を持った。彼らは皆暗殺されている。

ボールドウィンはこのような歴史の目撃者であるわけだ。彼らについて語ると同時にアメリカにおける黒人差別の歴史、映画における黒人の表象、社会における認識とそれをどう変えていってほしいか、ということをその知的な語り口で力強く述べる。

近年もBlack Lives Matter運動が高まっているが、つまり現状は何も変わっていないということだろう。生命と安全を保障されない環境で人は生きていけない、変わっていかなければいけない、そのために立ち上がる。その現実的な行動に対応して、思想も生成されていく。

なぜ、このような環境になったのか?差別者は被差別者に対してどのような見方をしているか?その考えはどのように生まれ育っていったのか?

それを考えない限り、何も変わらないのだと。

この映画は黒人差別に特化したテーマだが、引用される映画にひとつ、コロンバイン高校での銃乱射事件を描いたガス・ヴァン・サント「エレファント」があった。ここで銃乱射を起こすのは白人だが、学校社会で差別され疎外された存在としてこの映画を取り上げたのだろうか?

ここで見てるものとしては、思考の広がりを要請された気がしたが、まあ言うまでもなく

差別というのはどこにでも存在している。日本の社会も、歴史も差別に満ちている。

私という人間も差別的意識を知らず間にたっぷり育成され、それを発露し、いつの日か気付き見方を変えていたりした。生きているといろいろ思うところがある。差別する側であり、される側でもある。気づいていないところもまだまだあるだろう。

これは教育の限界であり、出発点である。

私はあなたのナントカではないんだよ、というフレーズにより。