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幸福なラザロ Lazzaro felice

最近、アルバ・ロルヴァケルの出演した映画がいくつか公開された。

イタリアの俳優アルバ・ロルヴァケルは私のお気に入りの俳優で、姉妹のアリーチェ・ロルヴァケルは映画監督。彼女の作る映画も好きだ。

2018年、アリーチェ・ロルヴァケル監督による

イタリア映画「幸福なラザロ」が公開された。

なぜラザロは「幸福」なのか?

私は「愛された者」だから「幸福な」とつけるに値するとされたのだろうと思う。

誰に愛されたか。

そこは少し迷う。

ここで、この映画の中のラザロに限定せず

広く知られているラザロという人物を思い浮かべてみる。

ラザロといえば、新約聖書に登場する人で

エスの友人であり、イエスはラザロの死を悲しまれ死後いく日も経ったラザロを甦らせた。

そこからラザロは「復活」の意味を持つイメージとともに語られる。

もう1人、別人とされるラザロも聖書には登場する。

「金持ちとラザロ」の話に出てくる者だ。

貧しく酷い境遇にあるラザロを顧みることなく生きた金持ちは死後地獄に落ち、

生前貧苦にあえいだラザロは死後天国で幸せに暮らす。

 

「幸福なラザロ」という映画には

この2種類のラザロのイメージが混ざって取り込まれているように思う。

 

聖書の記述に従うなら「イエス・キリストに愛された者」である。

一般的にそうだし、その認識はこの映画においても通用するものだろう。

だがこの映画において、イエス・キリストという存在はあまり押し出されていない。

ということから、この映画の中でラザロは

見る者にとって「何か人の力の及ばないもの」「世界」に愛された者のように映る。

 

それを「神に愛された者」と言ってもいいのかなぁと思いつつ、そう直接的に言ってしまうと失われるものがあるように感じる。

 

もっと手につかめない、空気、時間、風、光、そのようなものの中で受容されている特異な存在であるとも。

 

聖書のなかのエピソードで、好きなものがある。

ルカの福音書 「エマオで現れる」(共同新訳)

二人の弟子がエマオという村に向かって歩いてる。イエス磔刑に処されたあとだ。

 

一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

...

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 

エスの復活、そして人の同行者としてともにいる普遍的存在となったことを感じさせる。

エスが見えなくなったのち、しかし“あの時”「わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉は

見えないけれどもいつもそこにある、ということへの気付きと高揚を静かに伝えてくれて

とてもドラマティックだと思う。

 

「その姿は見えなくなった」について

山本芳久「キリスト教の核心をよむ」では

ここでは微妙な言い方がされていて、イエスがいなくなったとは言われていない。

英語で言えば「invisible(目に見えない)」のようなギリシア語が使われています。イエスは見えなくなった。しかし逆に言えば、たとえ見えなくても、イエスは常に共にいてくださるということに弟子たちは気づいたのです。

とある。

こういうことを読んだ時に、これまで読んだ「神は愛である」という考えのある小説のことを思い出し、そのときにかすかに捉えた実感についてさらに深めていけるような気になる。

トルストイの「人はなんで生きるか」という小説(中村白葉訳)では

愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから

 

と結ばれる。

 

遠藤周作「沈黙」の重みのあるラスト

今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

 

これらを読んだときの感動は、与えられる側ではなく与える側に根本的に転換する際を目撃できたようなカタルシスであったような気がする。

上にあげた例はどれも私の中でつながっていて、読書で得られる感動のなかでも高次のものであったと思う。

 

ここで一つ留意するのは

先に引用した山本氏のツイッターにあった言葉

山本芳久 on Twitter: "神は愛であるが、愛は神ではない。とても単純なこの命題を軸にしたキリスト教の入門書をいつか書きたいと思っている。" / Twitter

 

という点ではないか。

愛は神ではない。が、人間が愛を行う時

神は存在するという感覚だ。

 

「幸福なラザロ」に話を戻すと、アルバ・ロルヴァケル演じる人物は“復活”したラザロを即座に理解し、手を合わせひざまずく。

彼女は映画内で唯一ラザロの聖性を感じとることのできた特別な人物だ。

農園主による聖書の講読のおかげでもあったかもしれない。

映画『幸福なラザロ』予告篇(4.19公開) - YouTube

アルバ・ロルヴァケルが演じる人物は

人間と自然をつなぐような雰囲気を持つ。

その柔らかできれいな空気が好きだ。

 

ラザロは時を越えて生き最後は動物に変身する。

人間であった時ラザロは人に馬鹿にされ

頼りなく佇んでいた。この映像が絵画的で美しい。

かつてオオカミの遠吠えを真似したときの世界との一体感を思い出し、走り続けるうちに同一化したのか。最後に人間世界から抜け出すようなさまは価値判断を超えた展開のようにも思える。

例えば、『大人は判ってくれない』で最後にアントワーヌはただ走る。

『フランシス・ハ』でも最後、走り続ける。

さまざまな感情を置いて走る様子は、人間が何かから脱皮しようとするさまを表現しているようだ。

そこから、静止している、せざるを得ない観客が見出すのは、何かを突きつけられるような置いていかれた感覚だ。

この唐突にも思える魔術的描写は説明が難しく

アリーチェ・ロルヴァケルの映画は一筋縄ではいかない。

個人的に小説や映画、詩の非常に純粋で無垢なものに触れたとき心を動かされる。

総合的な要素を踏まえて、それを抽出するのは

奇跡的なように思う。

そして、その先にあるものはなんだろうか。

分からないけれど、それで終わりではないことを気づかせる。

2022/06/18

6月といえば

「なぜか多い6月のベイベー」

RIP SLYMEの「楽園ベイベー」)

が頭の中で流れるのだけど

実際6月生まれって多いように感じる。

太宰治とか原節子とか、現実世界で知っている人でも何人か。

まあこの曲のせいで記憶しやすくなっているだけだと思うけど。

 

そんな今朝

ジャン=ルイ・トランティニャンが6月17日に91歳で亡くなったというニュースを見た。

大好きな俳優で

80代になってもミヒャエル・ハネケ監督の映画に出演するなど変わらぬ活躍であったが

やはり人間はいつか死ぬものなので

「L’acteur Jean-Louis Trintignant est mort à l’âge de 91 ans」という記事見出しを見た時に

「とうとう…」と思った。

 

これで私の大好きな映画『愛、アムール』に主演する2人の俳優、エマニュエル・リヴァとトランティニャンが亡くなってしまった。悲しい。

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愛、アムール」でトランティニャン演じるジュルジュが老老介護の末、リヴァ演じる妻のアンヌを殺してしまう直前に語りかける少年の頃の思い出

「悲しいサインとしてハガキには星をいっぱいにして描いた」

このあたりのシーンを思い浮かべるだけで涙がにじむ。

 

「星をいっぱいにして描いたハガキ」という

ナラティブでしか登場しないエピソードが

映像にうつる人物の心象を深く捉えられるきっかけになっている。

ハガキに描かれた子供の筆致の星

夜空いっぱいの星

現在のジュルジュの置かれた状況

いっぱいの悲しさをたたえて最愛の配偶者を手にかける「愛」

その後の「死」

 

人生というものが星の一つ、つまり悲しみの一つであり、それがしかもとても美しく表されている。

大きな星、スクリーンでは永遠だ。

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2022/4/10

このブログもあまりにも書かない時期が続いているため

何も書くことはなくても毎日書くことを強制的に自分に課そうかなと思っているこの頃である。

 

2021年の振り返りもできなかった。

村田沙耶香の『地球星人』に抱腹絶倒のち切実な無鉄砲に心がぎゅっとなったことや

川上弘美の『某』がとても好みでしばらくその世界から戻れなかったことなどが

自分の中で文章にして整理することができていない。

 

ティモシー・シャラメを再確認するために『君の名前で僕を呼んで』を見返したことなども。

 

なぜ書かなくなったかというと一重に自分の怠惰である。

そしてこの類の怠惰は恐ろしく、いつの間にか私は語るべき言葉をなくしてしまったのだった。

語るべき語彙をなくすということは、感受性をすり減らすことにつながる。

感受性をすり減らすということは、日々生きていく中で自身の内面や外界で起こっていることに鈍感になるということである。

「鈍感力」という言葉は良い意味でも使われていて、確かにそちらの「鈍感力」はいいものだと思う。『動物のお医者さん』の菱沼聖子みたいな感じでしょ?

しかし、悪い意味での「鈍感力」はなんだかつまらなくなる。おかしいなぁ、心が動かない。

という感じ。

と言いつつ、合間合間に面白いことはあるのだが、すぐ忘れてしまう。

パウル・クレーの「忘れっぽい天使」が思い浮かぶ。

 

そういう意味で、無理やりにでも毎日何か書いた方がいいかもしれない、と思った。

 

題して今日の日記。

初めての美容院に行った。

渡された雑誌は「GINGER」。私のプロフィールから無難に選んだものだろう。

今まで一度も読んだことはないが。

しかし最新号とその前月号をしっかり読んだ。他にすることがないので。

特に面白かったのは、巻頭に載っている山田詠美の連載コラム。

きゃー、山田詠美久しぶりじゃー、と静かにテンションが上がった。

山田詠美のさまざまな小説に思春期時代、知らない世界に衝撃を受けたり楽しく丁寧に読んだりしていた。

今の思春期の人たちもきっと山田詠美読んでるでしょう?

全然知らんが。

別に山田詠美さんは思春期専用の作家ではなく、老若男女(←これをローマ字で正しくタイプするのが大変だった)が読む日本を代表する現代作家だと思いますが。

個人的にはやっぱり10代の景色が浮かぶ。今よりも文庫本が安かった頃。

 

君の名前で僕を呼んで』2回目の鑑賞では

主人公エリオを演じるティモシー・シャラメはもちろんだけど、アピチャッポン映画で撮影しているサムヨプー・ムックディブロームのカメラによる夜や夜明けの風景、エリオの父の言葉、エリオの母(アミラ・カサール演じる)のかっこよさ、が印象的だった。

 

エリオの父は、オリバーと別れたエリオに対して次のように語りかける。

 

人は早く立ち直ろうと自分の心を削ぎ取り、30歳までにすり減ってしまう。

新たな相手に与えるものが失われる。だが、何も感じないこと、感情を無視することはあまりにも惜しい

いまはひたすら悲しく苦しいだろう。痛みを葬るな。感じた喜びも忘れずに

 

↓からの孫引用。

realsound.jp

 

30を過ぎた私にはこの言葉がすごく刺さるのです。

しかもそれは言われる側としてではなく、言う側の実感として。

つまりすでにすり減った後なのだろう。

いやはや、この類の言葉が刺さる日が来ようとは

山田詠美を読んでいた14歳の私は思ってもみなかったね。

寝ても覚めても

とても久しぶりになったので、リハビリ的な日記を。

 

最近DYGLというバンドが好きだ。

初めて聞いた時、日本ではない土地の香りがした。

日本のバンドだが、早くからアメリカでの活動を始めている。

全て英語歌詞だが、ボーカルの発声にはすこし日本語の名残がある。と書くと揶揄のように聞こえるかもしれないが、全くそういう意図はなくそんな感じも含めて単純に、この人の歌い方が好きだ。

はっきりとまっすぐで聞きやすく、風通しがよい。

Banger - YouTube

最近車のCMで「Sink」という曲が使われていて、耳にしたことがある人も多いのでは。

Sink - YouTube

そして濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』を見た。

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同監督の『親密さ』の時のように映画の中で演劇が置かれていて、その2つの内容が少しずつ重なり合っている。西島秀俊演じる家福(これはカフカにかけてるんでしょうか?)という演出家を主人公にして徐々に明らかになっていく世界、そして旅をするように物語が動き出すのだが、映画の中で上演に向けて進む演劇、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の台詞が色んな場面で繰り返し“音”として流れる。

それが徐々に人物の実際の生活に入り込み、同じ台詞が繰り返されても以前とは違う、新たな意味をもたらす。

この繰り返しの技巧がとても上手いなぁ、などと思った。

最近山本芳久のキリスト教に関する本を読んで、旅人の神学、というワードに触れ、キリスト教に限らず、普遍的に訴えかける人間の物語というのは、広い意味での「旅」をキーワードにして自分を覗き込む、目を背けない、そして見えないけどずっと側にあるものに気づく(その時自己が無化される)というのがとても重要なテーマになっているのだなぁ、と物語中、岡田将生が演じる高槻の最も重要な一連の台詞を聞きながら思い出していた。

 

つらつら色んなことを考えるが、やはりこの映画の静かに押し寄せる感動の源は

ラストの、「ワーニャ伯父さん」舞台上におけるソーニャの台詞の再構成だろう。

 

なぜ再構成と言ったかというと、「ワーニャ伯父さん」という演劇内の台詞というものに留まらず、この台詞を通して、この映画の中で家福が抱えていた苦悩が徐々に濾過されある種リセットされる、なんだかとても純粋な瞬間に結びつく二重の背景があること、台詞が韓国手話によって表現され字幕で表されていること(それによって言葉で発せられるのとは少し違う効果が、特にこの映画では、やはりある)、がある。

あの時の西島秀俊の恍惚とも言える表情は忘れ難い。

ワーニャ伯父さん/三人姉妹 - 光文社古典新訳文庫

映画では「ゆっくり休みましょう」だった気がするけど、その言葉に包まれる2人というのがちょっとびっくりするくらい崇高さ、救われている人のさまを感じた。

これは原作小説からかなり羽ばたいた、一つの映画作品として独立したものだと思った。

 

それよりちょっと前に見たのが同じく濱口竜介監督『寝ても覚めても』。

寝ても覚めても』という柴崎友香による小説を読んだのは、3年前くらいだったと思う。

眼科の待合室でファッション誌を読んでいた時に専属モデルの1人、唐田えりかが、最近、この小説を原作にした映画に出演しました、と『寝ても覚めても』を紹介していて、それがすごく気になった。

 

そのあと図書館で借りて読んで、とても気に入った。

ところどころのディティールがすごく印象に残る小説で、例えば主人公の朝子という女性はいつのまにかちょくちょく転職してるのだけども、まるでずっと同じ仕事をしているかのようなテンションでいつも職場で過ごしていて、ビルの窓から見える大阪の街並みを突然詳しく描写したり、カメラで写真を撮ることが好きなのだけど、友人たちと過ごしているところに、今この風景をカメラで撮る写真のように全て記憶していたい、みたいなことを滔々と内面で語り始めたり(手元に本がないので正確な描写ではないけど)

彼女にしか分からない脈絡で、「衝動」としか言えないものによって突然滔々と語りだすのだけど、それがなんだか心地よい。もしかしたらある種の逃避なのかもしれないけど、朝子にしかない視点、考え、をはたから見たらよく分からないタイミングで尽きることなく、ふわふわと出してくる。

きっと周りから「不思議ちゃん」と言われるような感じだと思うが、あまり無下にはできない妙な切迫感もあり、読んでいて朝子の「見える世界」「衝動」「直感」は大事にしておきたくなる。

このふわふわした女性(貧困というほどではないけど不安定な雇用環境に置かれている、特に建設的な?目標もなく日々を生きる女性)の声をきちんときちんときちんと描写して何でもない恋愛や変なことも描写して、それが納得できる感じの小説を書くから、私は柴崎友香の小説が好きなんだと思う。

そしてそこから、ホラーみたいな怖い瞬間、どうしても理解できないよう瞬間をさらりと出す時に、わぁこの小説すごい、と思う。

 

寝ても覚めても、だったら、朝子が麦と再会した瞬間、いとも簡単にそれまで何年も仲睦まじく暮らしてきた亮平を捨てること、そして出た麦との逃避行に際して麦の顔を見た時にそれはもう絶対的に「違う」と思い、再び亮平のところに戻るところ。

この朝子の見えたものに対する態度、直感というのはもう圧倒的で、あれこれ外野から何かいうことができないもの。

読んでいてよく分からないけど、「違う」というのは分かって、つまり人が見えているもの、見えていなかったものを転換したときの衝撃やそこにある主観の絶対性に説得力がある。

そうまでして朝子を動かすものは?朝子に見えてるものは?

わからないけど、わかる。みたいなところがいい。

 

この朝子の説明を放棄した衝動は映画でも効果的に描かれていた。

その後の主演2人のスキャンダルを目にした際、その内情はわからないにせよ、どうも同情的に見てしまうのは、この物語の性質に根差している。

 

映画の方も公開された時と、最近動画配信で計2回みたのだけど、いいなと思った。

何回か書いてる気がするけど、私は濱口竜介の映画を苦手だな、と思っていて、それはなんか居心地の悪いベタな場面が多いからなんだけど、それを上回って見ていて引き込まれた。

なにげに監督作品を見ているのは、なんでだろう?やっぱり気になるのかな。

これは一般論だけど、小説を読んで自分が得たイメージとは違うのが、やはり映画というものなので、こういう風になるのね、というところも面白い。

 

小説より映像がすごいな、と思ったのは、東出昌大が麦と亮平の一人二役を演じていることで、小説だといくらこの2人が本当に似てる人物として描かれていても、読者にとっては目で見えているわけではないので、本当に似ている他人、朝子には瓜二つに見えるある程度似ている他人、ドッペルゲンガー、いろんな読み方ができるんだけど、

映像になると有無を言わせず全く同じ人になる。

亮平がいる食事の場に麦が現れるシーンの、まったく同じ顔をした人間が2人いる、映像の暴力とでも言うべき不気味さ!

まったく同じ顔をした人間に囲まれる恐怖、それを目にしている恐怖。

 

そして東出昌大は優男の役よりも不気味であったり怒りをたたえている時の演技が、見ていて胸の内側が引っ掻かれるような気持ちになる。

 

映画についてもう一つよいな、と思ったのはtofubeatsによる音楽。

麦が登場するシーンでしか音楽が流れていないと思われる。

単純に音楽による動と、音楽のない静という二項対立にして両立させてもいいけど、私は音楽が流れる場面に少し優位性を感じる。流れる音楽と映される画面に相乗効果を感じるからだ。

建物などを構造的に移した場面(エスカレーターで上る、非常階段、暗い地下駐車場、防波堤)との音楽の相性の良さを感じる。

in the clubという麦と朝子がクラブで遊ぶシーンで流れる音楽があるけど、

この曲のてらいのないあけっぴろげでさらっとした楽しい感じがよい。

tofubeats森高千里は関係が深い音楽なのだと思っているけど、私はこの曲を聴くと森高千里の「17歳」を思い出す。

 

そしてテーマソングの「RIVER」。

tofubeats「RIVER」 - YouTube

寝ても覚めても愛は、」で始まる曲だけど

tofubeats自身のTwitter

寝ても覚めても、の後に、愛は、という言葉はこの映画を見るとこないかな、みたいなことを書いていた記憶がある。

 

私も映画館で見た時に

寝ても覚めても愛は〜♪でエンドロールが始まった時に

愛かしら?と思ったものだった。

じゃあ何が来るんでしょうか?というと、「私」なのかなと思ったり。

英語題名はASAKO I &II だったし。

寝ても覚めても』は徹底的に「私」(朝子)の物語に思える。

変わりゆく私、変わらない私、その目から見えるもの、私が見たものというのは揺るがない。

夢でも現実でも。

 

そう思うと、『ドライブ・マイ・カー』でのエッセンスとなる高槻の台詞が呼び起こされる。

 

でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。

文春文庫『女のいない男たち』村上春樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

つまり濱口竜介は、『寝ても覚めても』で自分自身に忠実に見る者の話、『ドライブ・マイ・カー』で自分の心を見失い他人の深い淵に囚われた者がまた自分を見つめる話、二つの作品で双方向から人間を描いたんじゃないか、というのが今のところの私の見解である。



2020年見た映画

2020年に見た映画で良かったもの、よくも悪くも印象が強かったものについて。

最近、アメリカで暴徒化したトランプ支持者が議事堂に乱入したニュースを見て、改めて現実はフィクションを斜めに上回るものだと思ったが...

2020年6月に早稲田松竹でのロメロ特集で死霊のえじき」「ゾンビ」を見た。

現実のニュースで見た議事堂に押し入る人々の様は、まさにゾンビそのもので、よく言われるところの「ゾンビがある種の人間の姿の示唆するところである」ということを改めて思い出した。

 

2020年1月に

寺山修司監督田園に死す」「書を捨てよ、町へ出よう」松本俊夫監督薔薇の葬列」「修羅」を見た。

好みとしては田園に死す」、「修羅」である。

どちらも撮影は鈴木達夫

田園に死すのラスト、母親とちゃぶ台をはさんでの食事のシーンで突如、背景が倒れて新宿東口付近の街並みになり、延々とエンドロールまで続くシーンの、どこまで行っても逃れられない鬱屈と息苦しさの表現は、映画的実験の成功と可能性を示す。

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 「修羅」は、鶴屋南北狂言などを基にした時代劇で、撮影の腕が光っていた。印象としては、いかにも時代劇というか、時代劇を見ているときに感じる紋切り型のスタイルの積み重ねによる濃密な閉塞感があった。

www.imageforum.co.jp

しかしその上で、この映画すごいな、というのは、画面の「鋭さ」だと思う。

モノクロームの世界であるが、境界がぼやけない。凄惨な人殺しのシーンでは、きりきりとした緊張感のもと、鬼になった人間の悲しさ、恐怖をそのまま伝えてくれる。

ワンシーンで横長の重層的な空間を無駄なく伝える構図の鋭さ。その中で人物の動き、ひいてはストーリーの流れを自然に直感的に見るものに伝えてくれる。

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2月に見たのは

ハンガリーの鬼才・タル・ベーラ監督「サタンタンゴ」

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438分(7時間18分)もある、まずは長さで記憶されるであろう映画。

途中で寝ることなく見ることができたのは、映し出されるこの世の果てのような暗い風景が好みだったからだと思う。

ある小さな村にイルミアーシュという男が訪れ、という話ではあるが、7時間もあるので細々と色々な話が積み重ねられ、個人的にあまりイルミアーシュがどんな男だったかあまり印象にない。ここまで長い必要はあるのか?という疑問は残るが、稀有な映画体験といえばそうなのだ。こういう映画を作り、評価を得るというのはきっとすごく難しい。何に評価を与えるかは人それぞれだが、誰にも見えていない、しかし本当にある世界の一部を切り取ることができる、という点だろうか。

屋外のシーンの、道を延々と歩く人の姿や、雨ばかり降っている終末的な世界も割と好みだが、私は古びた部屋の中で老人が机に座りかちゃかちゃと水差しから水(酒?)をついだり、タバコを吸ったり本を開いたりと様々なことを行うのを延々と至近距離で映している様が頭に残っている。

結末がまた最初に繋がっていくという円環状の構造となっており、見た後にまたおかしな時空に迷い込みそうな映画である。ボルヘスなどの短編の読後感と似ているといえば、似ている。

あと、ロシアのアレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」を見た後の感触とも似ていた。

タル・ベーラは他にニーチェの馬を見たけど、よく2時間台の映画的長さに収めてくれたな、とまず思ってしまう。

スーザン・ソンタグ「サタンタンゴ」について「残りの人生で毎年見たい傑作」というコメントを寄せているが、本当に毎年見たのか、少し気になる。
 

www.bitters.co.jp

 

2月にはエリック・ロメールの映画4本立て(海辺のポーリーヌ、満月の夜、緑の光線、レネットとミラベル)も見に行った。

これは「サタンタンゴ」と対極にあるようなスタイル(90分ほど、おしゃれ、軽やかに繰り出されるセンスの良さ)で、私は素直に声高に「大好き!」と言えるような映画群である。

初見だったのは「レネットとミラベル」

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 レネットを演じているジェシカ・フォルドがとても素敵だった。

4話仕立てになっており、最初の話だけ舞台が田舎、残りは都会を舞台にしている。どのシーンも良くて目が離せなくてうずうずするのだが、映画的といえば最初の「青の時間」。 夜明け前の一瞬ブルーになる世界を二人で見に行く、という話。

おとぎ話のようなシンプルさ、シンとした美しい自然風景と二人の姿は、心の大切な部分に残しておきたくなる。

 

5月にふと見たのはグザヴィエ・ドランたかが世界の終わり

ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティリャール、ヴァンサン・カッセルといったフランス人俳優の幕の内弁当みたいなキャストの中でも、やはりドランの映画なので、一番「持って」いるのは主人公の母親(ナタリー・バイ)だ。

息子の目をまっすぐに見て、「驚いた、あなた、お父さんとそっくりな目になっている」と涙ぐんで話すシーンを見ると、やられた、と思う。

 

7月に見に行ったのは、ギャスパー・ノエ「CLIMAX」

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人里離れたところに集められたダンサーたち、パーティーでの飲み物にLSDが混入されており、そこから生まれる阿鼻叫喚の一夜、という話。

こういうゾクゾクするようなセンスの良い映画は大好き。予告編を見るだけでわくわくする。

youtu.be

前作「LOVE」は男女の官能的な関係の末の顛末を描いた内容なのに、なぜか3D限定で公開され、延々と男女のベッドシーンを3Dで見続けるというある意味貴重な映画体験をした。(そういえば、「LOVE」の主人公を演じた男性がゾーイ・クラヴィッツと結婚し離婚してましたね)

残るものはあったが(雨降りしきるなか、修復不可能となった男女が「僕たちは自分が思うほど才能がなかった」と言い合うシーンとか)、正直商業的にこの監督は大丈夫なのかしら、と思ったりもした。

しかし「CLIMAX」のカオスは素晴らしく、最初のダンスシーンはそれだけで何回見ても興奮する。カメラがぐわんぐわん回るシーンとか3Dで見ても良かったな、と思う。

素でハイになれる映画だ。

予告編で最後に出てくるノエの言葉がまたいい。

「カノン」をさげすみ

「アレックス」を嫌悪し

「LOVE 3D」をののしった君たち

今度は「CLIMAX」を試してほしい

僕の新作だ

 

8月には夏っぽく、トラン・アン・ユン監督夏至を見た。

この監督の映画も、湿度の高さとみずみずしさが伝わってくるような映像の色味や、セットの細々としたこだわりが好きだ。

2020年には3月に同監督のノルウェイの森を見た。

高良健吾演じるキズキと松山ケンイチ演じるワタナベがビリヤードをするシーンとか好きだけど、松山ケンイチが寒い冬に海近くの岩場で声をあげて泣くシーンを見たときは、その微妙さに、この監督は寒い場面を撮ることに向いていないな、と思った。

そういえば、キズキとワタナベが自転車で走りながら桃を食べ合うシーンがあって、あれ、この映画こんなに直截的な比喩シーンがあるのか、それとも素直に見た方がいいのかしら、などと驚いた。

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夏至については、女性たちの美しさに終始目がいってしまったな...目の輝き、黒々とした髪、含みのある赤い口元。

とてもきれいに対象を撮る監督。緑が美しい。

トラン・アン・ユンという映画作家についてはもっと解説などを読みたいところ。ベトナム性とフランス性の両側面など。以前に青いパパイヤの香りも見たけど、根底にあるのは透明な視点を通した憧憬なのだろうか、などと思ったり。

 

ひとまずこのへんで。

 

「幸せではないが、もういい」ペーター・ハントケ

今年のノーベル文学賞受賞者はアメリカの詩人、ルイーズ・グリュック。

発表の生配信を見ていて、私は知らなくて「誰?」って感じだけど、まあ探せば誰かが日本語訳したり一冊くらい研究書があるのかな〜と思っていたら、日本ではそういうものが全然ない詩人だった。

全米図書賞を受賞しているから、アメリカ始め国際的には評価の高い詩人なのだろうが、ノーベル文学賞の候補としてはあまり予想されていなかったのではないだろうか。

軽く見ただけだが、スウェーデンでは比較的評価が高くよく読まれているらしい。

そういう意味では文学賞ノーベル賞の中でもやはり少し「評価」の与え方、受賞することで生じる意味や利用などの二次的広がりに関するその考え方が独特なのだろうか、と思う。

 

ともあれこういう「誰?」みたいな人を打ち出すことは、私みたいな、ともすれば視野が狭くなってくる一般読者に対していい紹介となる。

 

少し下世話な見方をするならば、去年受賞したペーター・ハントケに対して過去の親セルビア的姿勢から政治的批判が上がったが、今回はそんな強い批判が浮かびにくい人選ではあるなとも思った。

 

book.asahi.com

 

そんなペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』(元吉瑞枝 訳)を読んだ。

51歳で自殺した自身の母を題材にし、自らの筆で彼女の人生を再構成したような内容であり、1972年に出版された。

ハントケ自身はもはや好むと好まざると、そして様々な見方をされる、世界の文学史(というのかな)に多少のスペースが割かれる作家だが、無論、彼の母は一人の「名もなき人間」だ。

その「名もなき人間」の生を、彼女自身による終わりまで描写した時、一つ一つの小さな事柄・気づきの描写に、寄る辺なさと或る(それはどこまでも「或る」としか言えない、世界を一つにまとめる「まさに」というような総体的事柄ではなく、水中でぽつぽつと生じる酸素の泡みたいなもの)「真なる実感」というものが感じられる。

そして読後感は、寂しい。

 

まず印象的なのは「幸せではないが、もういい」という日本語タイトルだろう。

このタイトルは当たりだと思う。諦観の末の肯定というか、よく分からないけど、含みの多い魅力的な題名だ。

だが訳者あとがきで説明されているのを読むと、タイトルに関してはもっと複雑だ。

 

原題は「Wunschloses Unglück」。

このタイトルには二重の異化効果があるという。

一つ目は慣用語が反転していること。

「wunschlos は常に glücklich(幸せだ)と結びついて、具体的な場面の中で、「もうこれ以上望みようがないほど(幸せだ)」という満足感を、やや冗談っぽく強調する語」という。

つまり、この時点でタイトルの意味するところは「これ以上望みようがないほど不幸だ」か。

二つ目は通常の品詞が形容詞「不幸だ」であるところを名詞「不幸」に変えていること。

「当人の気持を表明した語ではなく、事態や状態を指す語にしている」

「しかしながら「もう望みようがないほど」(wunschlos)という方は常に当人の気持ちを表現しているので、この組み合わせは構造的にも異化的なのである」

そうすると、このタイトルのニュアンスを想像するなら「もう望みようがないほど、“不幸”」だろうか。

つまり「幸せではないが、もういい」というのは原題の「もうこれ以上はない」と「不幸」のニュアンスを受け継ぎつつ、日本語としてはさらに意味としての存在感を増幅させる意欲的なタイトルだといえる。原題で慣用語をひっくり返している点は、「幸せではないがもういい」という「普通」の価値観を反転させた言い方で受け継いでいると言えなくもない。

人が見た時に印象に残る、忘れないタイトルとなっている。

 

この本の中で、「彼女」が自らの人生の終着点を定めて、家族や親戚に別れの手紙を書くところがある。

「彼女には、自分が何をしているかわかっていただけではなく、なぜそれ以外のことがもうできないのかもわかっていた」

 

この絶望の境地を書く息子の悲哀というものに、私は作中一番心が揺れたかもしれない。