とても久しぶりになったので、リハビリ的な日記を。
最近DYGLというバンドが好きだ。
初めて聞いた時、日本ではない土地の香りがした。
日本のバンドだが、早くからアメリカでの活動を始めている。
全て英語歌詞だが、ボーカルの発声にはすこし日本語の名残がある。と書くと揶揄のように聞こえるかもしれないが、全くそういう意図はなくそんな感じも含めて単純に、この人の歌い方が好きだ。
はっきりとまっすぐで聞きやすく、風通しがよい。
最近車のCMで「Sink」という曲が使われていて、耳にしたことがある人も多いのでは。
そして濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』を見た。
同監督の『親密さ』の時のように映画の中で演劇が置かれていて、その2つの内容が少しずつ重なり合っている。西島秀俊演じる家福(これはカフカにかけてるんでしょうか?)という演出家を主人公にして徐々に明らかになっていく世界、そして旅をするように物語が動き出すのだが、映画の中で上演に向けて進む演劇、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の台詞が色んな場面で繰り返し“音”として流れる。
それが徐々に人物の実際の生活に入り込み、同じ台詞が繰り返されても以前とは違う、新たな意味をもたらす。
この繰り返しの技巧がとても上手いなぁ、などと思った。
最近山本芳久のキリスト教に関する本を読んで、旅人の神学、というワードに触れ、キリスト教に限らず、普遍的に訴えかける人間の物語というのは、広い意味での「旅」をキーワードにして自分を覗き込む、目を背けない、そして見えないけどずっと側にあるものに気づく(その時自己が無化される)というのがとても重要なテーマになっているのだなぁ、と物語中、岡田将生が演じる高槻の最も重要な一連の台詞を聞きながら思い出していた。
つらつら色んなことを考えるが、やはりこの映画の静かに押し寄せる感動の源は
ラストの、「ワーニャ伯父さん」舞台上におけるソーニャの台詞の再構成だろう。
なぜ再構成と言ったかというと、「ワーニャ伯父さん」という演劇内の台詞というものに留まらず、この台詞を通して、この映画の中で家福が抱えていた苦悩が徐々に濾過されある種リセットされる、なんだかとても純粋な瞬間に結びつく二重の背景があること、台詞が韓国手話によって表現され字幕で表されていること(それによって言葉で発せられるのとは少し違う効果が、特にこの映画では、やはりある)、がある。
あの時の西島秀俊の恍惚とも言える表情は忘れ難い。
映画では「ゆっくり休みましょう」だった気がするけど、その言葉に包まれる2人というのがちょっとびっくりするくらい崇高さ、救われている人のさまを感じた。
これは原作小説からかなり羽ばたいた、一つの映画作品として独立したものだと思った。
それよりちょっと前に見たのが同じく濱口竜介監督『寝ても覚めても』。
『寝ても覚めても』という柴崎友香による小説を読んだのは、3年前くらいだったと思う。
眼科の待合室でファッション誌を読んでいた時に専属モデルの1人、唐田えりかが、最近、この小説を原作にした映画に出演しました、と『寝ても覚めても』を紹介していて、それがすごく気になった。
そのあと図書館で借りて読んで、とても気に入った。
ところどころのディティールがすごく印象に残る小説で、例えば主人公の朝子という女性はいつのまにかちょくちょく転職してるのだけども、まるでずっと同じ仕事をしているかのようなテンションでいつも職場で過ごしていて、ビルの窓から見える大阪の街並みを突然詳しく描写したり、カメラで写真を撮ることが好きなのだけど、友人たちと過ごしているところに、今この風景をカメラで撮る写真のように全て記憶していたい、みたいなことを滔々と内面で語り始めたり(手元に本がないので正確な描写ではないけど)
彼女にしか分からない脈絡で、「衝動」としか言えないものによって突然滔々と語りだすのだけど、それがなんだか心地よい。もしかしたらある種の逃避なのかもしれないけど、朝子にしかない視点、考え、をはたから見たらよく分からないタイミングで尽きることなく、ふわふわと出してくる。
きっと周りから「不思議ちゃん」と言われるような感じだと思うが、あまり無下にはできない妙な切迫感もあり、読んでいて朝子の「見える世界」「衝動」「直感」は大事にしておきたくなる。
このふわふわした女性(貧困というほどではないけど不安定な雇用環境に置かれている、特に建設的な?目標もなく日々を生きる女性)の声をきちんときちんときちんと描写して何でもない恋愛や変なことも描写して、それが納得できる感じの小説を書くから、私は柴崎友香の小説が好きなんだと思う。
そしてそこから、ホラーみたいな怖い瞬間、どうしても理解できないよう瞬間をさらりと出す時に、わぁこの小説すごい、と思う。
寝ても覚めても、だったら、朝子が麦と再会した瞬間、いとも簡単にそれまで何年も仲睦まじく暮らしてきた亮平を捨てること、そして出た麦との逃避行に際して麦の顔を見た時にそれはもう絶対的に「違う」と思い、再び亮平のところに戻るところ。
この朝子の見えたものに対する態度、直感というのはもう圧倒的で、あれこれ外野から何かいうことができないもの。
読んでいてよく分からないけど、「違う」というのは分かって、つまり人が見えているもの、見えていなかったものを転換したときの衝撃やそこにある主観の絶対性に説得力がある。
そうまでして朝子を動かすものは?朝子に見えてるものは?
わからないけど、わかる。みたいなところがいい。
この朝子の説明を放棄した衝動は映画でも効果的に描かれていた。
その後の主演2人のスキャンダルを目にした際、その内情はわからないにせよ、どうも同情的に見てしまうのは、この物語の性質に根差している。
映画の方も公開された時と、最近動画配信で計2回みたのだけど、いいなと思った。
何回か書いてる気がするけど、私は濱口竜介の映画を苦手だな、と思っていて、それはなんか居心地の悪いベタな場面が多いからなんだけど、それを上回って見ていて引き込まれた。
なにげに監督作品を見ているのは、なんでだろう?やっぱり気になるのかな。
これは一般論だけど、小説を読んで自分が得たイメージとは違うのが、やはり映画というものなので、こういう風になるのね、というところも面白い。
小説より映像がすごいな、と思ったのは、東出昌大が麦と亮平の一人二役を演じていることで、小説だといくらこの2人が本当に似てる人物として描かれていても、読者にとっては目で見えているわけではないので、本当に似ている他人、朝子には瓜二つに見えるある程度似ている他人、ドッペルゲンガー、いろんな読み方ができるんだけど、
映像になると有無を言わせず全く同じ人になる。
亮平がいる食事の場に麦が現れるシーンの、まったく同じ顔をした人間が2人いる、映像の暴力とでも言うべき不気味さ!
まったく同じ顔をした人間に囲まれる恐怖、それを目にしている恐怖。
そして東出昌大は優男の役よりも不気味であったり怒りをたたえている時の演技が、見ていて胸の内側が引っ掻かれるような気持ちになる。
映画についてもう一つよいな、と思ったのはtofubeatsによる音楽。
麦が登場するシーンでしか音楽が流れていないと思われる。
単純に音楽による動と、音楽のない静という二項対立にして両立させてもいいけど、私は音楽が流れる場面に少し優位性を感じる。流れる音楽と映される画面に相乗効果を感じるからだ。
建物などを構造的に移した場面(エスカレーターで上る、非常階段、暗い地下駐車場、防波堤)との音楽の相性の良さを感じる。
in the clubという麦と朝子がクラブで遊ぶシーンで流れる音楽があるけど、
この曲のてらいのないあけっぴろげでさらっとした楽しい感じがよい。
tofubeatsと森高千里は関係が深い音楽なのだと思っているけど、私はこの曲を聴くと森高千里の「17歳」を思い出す。
そしてテーマソングの「RIVER」。
「寝ても覚めても愛は、」で始まる曲だけど
寝ても覚めても、の後に、愛は、という言葉はこの映画を見るとこないかな、みたいなことを書いていた記憶がある。
私も映画館で見た時に
寝ても覚めても愛は〜♪でエンドロールが始まった時に
愛かしら?と思ったものだった。
じゃあ何が来るんでしょうか?というと、「私」なのかなと思ったり。
英語題名はASAKO I &II だったし。
『寝ても覚めても』は徹底的に「私」(朝子)の物語に思える。
変わりゆく私、変わらない私、その目から見えるもの、私が見たものというのは揺るがない。
夢でも現実でも。
そう思うと、『ドライブ・マイ・カー』でのエッセンスとなる高槻の台詞が呼び起こされる。
でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。
文春文庫『女のいない男たち』村上春樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
つまり濱口竜介は、『寝ても覚めても』で自分自身に忠実に見る者の話、『ドライブ・マイ・カー』で自分の心を見失い他人の深い淵に囚われた者がまた自分を見つめる話、二つの作品で双方向から人間を描いたんじゃないか、というのが今のところの私の見解である。