hiro

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Perfume

中田ヤスタカの作った曲の歌詞ってなんか不思議で安心するなと思う。

初めて存在を知ったのは、やはりPerfumeの「ポリリズム」が流行った2007年。 

その時印象に残った歌詞は

あぁプラスティック みたいな 恋だ

歌詞が心に残るというのはやはり、「その時の空気」みたいなものがうまく表れた時だと思う。

つまり、2000年代半ばの若い子の空気は、ちょっと人間離れした、淡々とした甘さ、だったと思う。

 

それからcapsuleをよく聴くようになった。

上京する前の私はcapsuleに東京を重ね合わせていたし、都会への憧れはcapsuleの音楽に表象される何かを通じて醸成された。

今思うとつまらない、色々なことに悩んだりしたけど、それが音楽を聴くと思い出される。

感傷に訴えかける他にも、延々とイヤホンで聴いていても飽きないし、何回も何回も聴くことでそれまで聴こえてこなかった色んな音が聞こえてきて,

その仕掛けに気付くたびに嬉しくなった。

一つ一つの音を分解して、こういう効果にしてるのか、というのが、音楽を聴くというよりおもちゃを分解してさらに楽しくするみたいな感じだった。(音楽に疎いので何回も聞かないと分からない)

また、同じ曲をリミックスしたりいくつも別バージョンがあるのも楽しかった。

曲を1つまるまる聴くことで気づくこと、アルバムを1枚聴くことで分かることがはっきりしていて、それが面白かった。

また実物のCDに施されている物質的な仕掛け(つるつるの歌詞カードにエンボス加工とか、透明なシートが何枚も重なって一まとめにすると完成するとか、歌詞カードを付けていなかったりとか)も凝っていて、触るたびにときめいた。

だから歌詞だけが面白いわけじゃないし、意味を持たないフレーズの繰り返しや歌詞のない曲も多いので、おそらく歌詞は音楽においてあえてそれ以上の意味を持っていないけど、今回は歌詞のことを。

 

周期的に中田ヤスタカが携わっている音楽(capsule,Perfume,きゃりーぱみゅぱみゅ,鈴木亜美,COLTEMONIKHA...)をよく聴く時期が来る。

それで思うのは、この人はきっとビジネスライクに歌詞を書いているんだろうけど、時々ふっと力が抜けるような、そして自身の好みが反映されるような歌詞があってそのバランスが絶妙なんだろうな、ということ。

 

「dreamin dreamin」はcapsuleのかわいい部分が凝縮されたような曲だけど

この世界でたった一人で

うずくまってほほえむよりも

歩き出して

泣ける方がいい

 

まっすぐな目で見つめられて

心の自由がきかないの

という、少しクリシェ(決まり文句)的な歌詞ののち

恋をするっていうのとは

ちょっと違うけど

少しどきどきした

の、クリシェ路線を継承しつつ最後に少し落とす感じ。

これがボーカルこしじまとしこのシルキーな声で歌われるのだから、たまらない。

ハ行とタ行の音で少しかすれるような効果が入っている気がする。

「恋をするっていうのとは ちょっと違うけど」というのだから、恋をするほど対象のことを知らないし責任も持たないけど、シチュエーション的には「どきどき」するわけで、でもきっと次の瞬間には違う気持ちになってるかもしれない、そういう軽くて調子がいい、その場その場の、でも「本当」の感じ、というのをぐっと形にしているのがいい。

J-POPの歌詞はどうでもいいことを(もしくは切実な思いを)重苦しく描くのは好きだけど、こういう軽さをさらっと真面目に言っているのは本当いい。

 

Perfumeの曲はだいたい歌詞がついているので歌詞のことを考える余地があるのだけど

音楽性に合わせた、機械仕掛けの女の子が人間的な感情に目覚めて戸惑いつつもその感触を丁寧に歌っている、というのがすごくはまっている。

まだ言葉をたくさん知らないアンドロイドだから表現もどこかクリシェっぽく、だが機械的な言葉のランダムで一生懸命な組み合わせにより、生身の人間からは出てこないような意外な表現が時々出てくる、みたいな感じ?

 

Perfumeの3枚組のベストアルバムが去年発売されて、一曲目に置かれた新曲「Challenger」にはちょっとびっくりした。

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実はPerfumeの曲群には最近はマンネリズムを感じてて、あまり期待せずに聴いていた。

そして特別新しいことをしているわけではないけど、すごく心に届くのだ。

それは、言葉遊び以上ではないのではないかと思っていた「歌詞」に10年以上かけた歳月の重みによる「何か」が加わったことによる。

 

眩しい期待が君を君を燃やす

僕ら若すぎて気づかずにいたけど

夢を見捨てないで 涙で未来がぼやけても

 

どうにかなりそうなくらいがむしゃらだった日々

10年後きっと僕は楽に生きてられるはずと

寝るのが怖いほど何かしてなきゃいられなくて

 

こんな歌詞が中田ヤスタカから出てくるなんて!

と思ったのと同時に、走馬灯のように自分のこの10年の思いが巡ってくるような気がして

思わず目をつぶってしまった。

個人的に別に特別たいそうな思いや苦労を抱えて生きてきたわけじゃないのに

この曲がストレートに伝わってきたのは、魔法みたいだなと思う。

 

それでも何だか

眩しい期待が君を君を燃やす 

僕ら若すぎて気づかずにいたけど

というところで

何も知らなく、何かにすごく期待し憧れることができた頃

寝るのが怖いほど何かしてなきゃいられなくて

というところで

寝るのが惜しいくらい何かを成し遂げたい強気、とでもいうべきものがあった頃

を思い出してしまった。

そして

夢を見捨てないで 涙で未来がぼやけても

というシンプルなメッセージを

10年以上経ってもまっすぐ伝えられるのがすごいな、と...

そこに

10年後きっと僕は楽に生きてられるはずと

という「抜け」。

「楽に生きてられるはず」というゆるめのワードが本当に中田ヤスタカぽいなと思う。

「少しドキドキした」にも似た、ある時点で止めちゃう感じ。

そんな「抜け」のオブラートに包まれつつも、やはりこの曲のメッセージは力強い。

これからもPerfumeは進み続けていくよ、という夢を見させてくれる。

そこから始まる51曲にまたどんどんハマってしまう。

ZOMBIE-CHANG

去年か一昨年の冬に代官山でのZOMBIE-CHANGのライブに行った。

ライブハウスに行くのものすごく久しぶりだった。

そして今の社会情勢では、半永久的にあのごみごみして暗くて密集した中で音楽を聴くことはできないだろうな、と思ったりする。

 

ZOMBIE-CHANG(ゾンビーチャング)はメイリンの音楽プロジェクト。

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T.M.Revolution西川貴教」みたいな感じとインタビューで言っているのを読んで、なるほどと思った。

モデルもしていて、おしゃれで可愛い。

銀座に相応しい私になりたい――おめかしが似合う街に映える特別な「赤」 | 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 | FASHION

https://ginzamag.com/fashion/omekashi/

 

内省的なエレクトロ、と思う。歌い方がちょっとレトロでストレート、エモーショナルでない感じが特徴というか好きだな、と思う。

だから歩きながらイヤホンで、家で何かしながら、とか日常と繋がった聞き方ができる。

 

YouTubeチャンネル↓

www.youtube.com

 

この自然の中でライブしているのも好き↓

youtu.be

 

ステイホーム、というのが本格化しはじめたとき東京の屋上でライブ、というのを配信していてそれも好き↓

youtu.be

 

初めて聞いたのは3年前?とか。「GANG!」というアルバム。

日本では中尾ミエのカバーで一般的であろうフレンチ・ポップス「可愛いベイビー」をカバーしていて、その歌い方が面白くて、エレクトロのぽんぽん弾むような感じと、ともすればレトロフューチャーは「今」聴いてハマるか難しいところがあるのに怯まない感じが、この人自分の魅力をわかってるなぁと思って好感を持った。

歌い方が昔の歌謡曲ぽくて、のびやかで少し子供っぽかったり、少し妙齢の女性ぽかったり。

最近ピチカート・ファイブの野宮真貴の歌声を聴いていても思ったけど、私はこういう歌い方が好き。大人っぽい歌のお姉さんっていうか。

てらいなくきれいな歌い方で、変にエモーショナルにならない。ちょっと80年代のアイドルぽく、でもちょっと趣味が違うのよね、という感じもある、という。

 

ZOMBIE-CHANGはメロディックなスローテンポな曲にもハッとする。

これはよりテンポが遅くなって、歌い方の特徴が際立つのと、演奏もより細かく聴き込むことができるからだろうか。

曲のどこで一番力を入れるべきか、ここにこういう音を入れるとどれだけ効果的か、というのが明確に分かってるんだろうな、と思う。

 

「愛のせいで」

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これ超好きなんだよね。

サビのところよりも、メロディの棒読みで詩を読んでるみたいな感じにやられる。

 

最新アルバムに入っていないけど「MIMOSA」というシングルも。

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静かな街並み。というのが合う。

水たまりに静かに落ちた水の波紋が、ゆっくりと広がるように、詩情をこぽこぽ湛えていく。

おそらく「ミモザ」「ハト」「フランス」がZOMBIE-CHANGのキーイメージになっていると思うが

そこから広がる世界の慎ましくも趣味のよいことよ。

 

最新アルバム「TAKE ME AWAY FROM TOKYO」のラストにある「美しい愛の日々」に、私はなぜかテレサ・テンの「甜蜜蜜」を想起した。

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似ているとかではなく、何となく心象風景の中で繋がっていく、優しくきれいで少し孤独な懐かしさなのです。

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バラードについてばかり書いたけど、ガンガンいくようなエレクトロもイケてます。

数年前のラパンのCM

岡田将生肘井美佳が出演していた

数年前のSUZUKIラパンのCMがすごく好きで

今でも時々見てる。

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YouTubeでの拾い物の動画だけど、全4篇がまとまったもの。↓


岡田将生さん ラパン懐かしのCM集 全4篇 2011~2013

4種類あるけど、どれも好き。

ペーパードライバーで

車を運転するモチベーションは何もないけど

このCMの岡田将生が助手席に乗るなら運転したい。(ない)

 

岡田将生のファンだってこともあるけど

このCMの好きさは、ミーハーをちょっと超えてて

見ると元気が出るお守りみたいな存在になっている。

 

「海編」での

「ラパン、海、料理、早起き、君を好きになって、好きになりました。」

というセリフにすごくドラマを感じて切なくなる。

 「手袋編」で拗ねた彼女の隣にしゃがんでニコッと笑い

彼女を引っ張り上げる岡田将生のシルエットの尊さに心がぎゅっとなる。

手袋を見つけた後、

彼女にバシバシたたかれて笑っているのもいい。

とてもよくできた可愛い映画を見ているみたいな気分。

岡田将生の演技すごくないか。

 

つまり岡田将生のパブリックな良さを

最大に引き出していると言える。

 

私はミーハーだけど、

例えばグッズや写真集を買う、

イベントに行く、

ファンクラブに入る、

出演作を欠かさずチェックするというマメさはなくて、

どっちかというと偶然見ることができた様々な作品の中で

その芸能人の「パブリックな魅力」に

ひたすら夢を見る楽しみ方をする。

だから芸能人のプライベートでのスキャンダルとか、驚くけど

深掘りして落ち込んだりはあまりしない。

 

岡田将生の端正できれいな空気感と

牧歌的なのんびりした感じ

背景に自然の風景があっても浮かない感じ

がいいなぁと思う。

このラパンという車はきっと女性向けなんだろう。

淡いブルーのコンパクトな車体、

「ラパン」(うさぎ)という名前、

同色のウサギのぬいぐるみ、

そこに連なるイメージの先に岡田将生がいる。

 

このCMは、

似たシチュエーションで旬の若手イケメン俳優が出演し

シリーズ化しているけど、

岡田将生が一番ラパンの助手席に似合っていて、

イメージの引き上げに成功している気がする。

 

箱庭みたいな小さく可愛く整えられた世界に

ぴったりフィットする俳優、それが岡田将生

もちろん彼の魅力や才能、

というのはそれだけではないにしても。

 

そしてそんな作品が人知れず

誰かを幸せにしたり癒やしているのだ。

ただのCMといえばそれまでなのに、

何だか不思議なくらいこのCMに救われる。

何度でも見たい

今、将棋の世界は藤井聡太の時代になりつつあるんだろうが、海外映画においてはティモシー・シャラメの時代だろう。

ギリシア彫刻のような美貌と、繊細なライン、彼が出ているだけで映画の世界が何倍にも香り高くなる。

写真を貼ろうかと思ったけど、彼は映像で見たほうが何割にもその特別さが伝わるので貼らない。

まぁ本当にびっくりするような美青年で、彼の名を一躍世界中に知らしめたであろうルカ・グァダニーノ監督『君の名前で僕を呼んで』はもう何かもかもが眩しい。

ギリシア的な美の観念を投影しつつ瑞々しい水の動きによって現代的な世界と呼応させ、初々しい心の動き・欲望、「君の名前で僕を呼んで、僕の名前で君を呼ぶから」という呪文のような愛のささやき、忘れ難い映画だった。

 

すっかりティモシー・シャラメのファンになった私は、割と彼の出演作を見ている。

今後公開予定のウディ・アレンの映画も楽しみだ。

私に取ってシャラメは非現実、古い映画でしか知らなかったような本当の映画スターが現代に唯一存在している、みたいな感じ。ものすごく特別な存在感がある。

そして彼が2作連続で出て、おそらくこれからも常連となるであろう映画の監督がグレタ・ガーヴィグだ。

『フランシス・ハ』『レディ・バード』と彼女の映画作品を見ていて、正直物足りなさ、見ている途中で少し退屈になったりもするけど、見終わった後に悪い気持ちにならない、というのが、結構ポイントだと思っていた。

レディ・バード』の主演シアーシャ・ローナンはちょうど幼い天使と女神の中間のような地に足のつかない浮世離れしたオーラと、だが少し古典的な魅力があって、とても好きな俳優だ。

彼女はガーヴィグ監督にとって特別な存在であると思う。自分の分身にしている部分ももちろんあると思うし、ローナンを主演にすることによって、獲得されうるもの・達成されるものをとても上手く引き出している。

 

今回見た『ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語』は、ガーヴィグ前2作に感じた中だるみは全くなく、まず商業映画として非常に高いレベルにあると思った。

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当初は3月公開予定、とても楽しみにしていたが、新型コロナウイルスにより無期限公開未定になったときは、これを見るまでは死ねないと素直に思った。

6月半ばに無事公開されたが、コンディションの良い状態で見ようと思っていたら、なかなか見る機会がなく、そうかフルタイムで働いて特に体力に自信がない人間は、コンディションの良い状態を待っていてはいけないのだ、と気づき、時間に余裕がある時に、勢いで見に行った。

2時間少しの割としっかりボリュームのある映画だが、前半部分からしばしば感極まって涙が出てきた。

若草物語』は小学生かそこらの頃に読んだきりだから、4姉妹の話、くらいしか覚えていない。

でも映画にした時、女性4人がぎっしりと画面にいてなんやかなと動いているだけで、こんなに至福の画面になるのか...と驚いた。

説明するのは難しいのだけど、映画的な幸福が画面から溢れていて、いい俳優がたくさん出ていて、色々なシチュエーションがあり、

そしてローナンとシャラメが無邪気に笑い合っているだけで、涙が出てきたのだった。

こんなにいい場面を見られて本当に最高だ、という感じ。

 

話が進むにつれ、ローナン演じる主人公ジョーという人物に対する愛すべき感じ、彼女が泣いてたり悲しんだりしているときに、こちらも自然と泣けてくる、というのがどんどんハマっていく感じがした。

結局涙がこみ上げる時間が、結構な割合を占めていた気がする。

 

19世紀の物語『若草物語』はもちろん単純に映画化されてなどおらず、かなり大胆な構成と結末が用意されていた。

ガーヴィグ前2作に感じたまどるっこしさは、シナリオの流動的な感じ、現代劇であることに由来するのかもしれないが、『若草物語』という確固たる世界観の枠の中にあった時、この人はものすごく巧みに、現代人に見せて十分相応な物語を生み出すことが可能なのだな、と思った。

 

単純に言ってジョーの生き方には何かしら肯定的なものを感じるし、女性の生き方を力強く示すものである。

かつ映画の中で感じる寂しさというのは、少女時代の幸福、それが時間とともに過去のものとなり、今何かしらの苦しさを感じて生きていかなければいけない、というのは非常に普遍的な人間の宿命みたいなものだし、そういう感傷が非常に美しく過去の4姉妹の暮らしぶりににじみ出ていて、美しいなと思った。

 

物語の進行上シャラメは終盤若干、存在感が薄くなるが、途中まではやはりとっても「映画的」だ。端正でドラマティックな存在である。

女性陣よりも美しいのだ。というか、女性陣たちは最初は本当に愛らしいのだが、歳月とともにリアルになっていくというか、美しさよりも人生の苦しさを隠さないようにメイクや演出がなっていくと思う。最終盤に、姉妹3人が並んで歩いているシーンの時、エマ・ワトソンシアーシャ・ローナンもフローレンス・ピューも、びっくりするくらい綺麗に撮ろうとしてないなと思った。

三者三様どこかアンバランスでリアルな人間の姿になっているのだ。

だが、姉妹の姿に込められる愛情は映画全編を通して変わることはない。美しく撮らないことと愛がない撮り方は全く別だと思うし、ここでいう美しさというのは狭義のつまらないもので、深みで言ったら、とても美しい姿と言える。

 

この映画でしか見られない世界がある、と何度も思った時、これから何度でも見たい、シアーシャ演じるジョーに、シャラメ演じるローリーに、もちろんそれだけでなく挙げきれない様々なシーンに、また会いたいと思った。

ガーヴィグはこれからもシアーシャ・ローナンを主役にして映画を撮っていくのだろうか?

両者ともものすごく順調に評価されている気がする。

彼女の映画の中で、俳優たちはみな風通しのよい雰囲気を放ち動いていて、見ていてけっこう楽しい。

大人は判ってくれない

「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」

 

フランス・ヌーヴェルヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールは同じくヌーヴェルバーグを代表するフランソワ・トリュフォーの死後、この言葉を残した。

トリュフォーは84年に54歳で亡くなっている。

二人は当初は親しくしていたが後に決別、上記の言葉はトリュフォーの死後数年が経ってから書簡集に寄せられたものだ。

 

以前早稲田松竹トリュフォーの映画を観た後、電車の中でゴダールのこの言葉を思い出し、確かに映画作家にとっての「死」とはなんだろう、と思った。

作品は観る人がいる限り残るし、今は亡き映画監督が映画に残した精神性はありありと感じられる。トリュフォーの映画を観た後、トリュフォーが死んだことは考えない。彼の映画に出てくるもののことを考える。

 

もちろんゴダールの言葉はこういうことを言っているのではなくて、近しい立場にいた才能のある者同士にしか分からない理解、生死を超えて残る悟りのようなものかな、とも思う。

すこし寂しくすこし感動的だ。

 

ともあれゴダールのこの言葉は印象に残った。死者は常に、生きているものにとってしか存在しないのだ。

 

先日4ヶ月ぶりに映画館に行った。

池袋の新文芸坐トリュフォーの「夜霧の恋人たち「大人は判ってくれない」を観た。

どちらもトリュフォーが自らの分身として創り出したキャラクター「アントワーヌ・ドワネル」を主人公とする映画だ。

アントワーヌを演じるジャン=ピエール・レオは、トリュフォーにそっくりで、自らに似た俳優を起用して自らの子供時代・青年時代を再構成して映画を作るというのはどんな心持ちなんだろう、と思う。

余談だけど、俳優としてジャン=ピエール・レオの映画における佇まいは純粋に超いい。

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 「大人は判ってくれない」の主人公アントワーヌ・ドワネルは学校でも家庭でも何かもかもうまくいかない。

原題を直訳すると「400回の殴打」。

単純にいうと家庭崩壊した非行少年が最後は施設送りになる話なのだが、時折出てくる軽快な音楽や元気に走るジャン=ピエール・レオ、何かをじっと見ている時の彼の透明な視線、といった心が軽くなるようなシーンが映画全体の暗さや悲しさとうまくバランスを取っている。

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家では父も母も自分を省みているとはいえず、勉強に集中できず先生からは罰ばかり、いたずらをし盗みをし、タバコを吸い酒を飲む。

笑っちゃうのは鑑別所みたいなところに入っても、ポケットから葉を取り出し紙でくるくると巻き火をつけて吸っている。

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出口が見えないアントワーヌを映す映画の視線は優しさと無関与が感じられて切ない。

警察の車に乗せられてるアントワーヌはじっと道路を見ているが、その目からは涙が流れている。

私はそれを見た時に、強いように見えたアントワーヌの悲しさが迫ってきて涙腺が緩んだ。

施設での面会で、母親から見捨てられることが決定的になったアントワーヌは、サッカーの試合中に隙をついて逃げ出す。

若すぎて何も見えないけれど、何かせずにはいられない。ただひたすら何もない田舎の道を走る。

彼はそこで初めて海を見る。

ひと気がなく波の音しか聞こえないような寂しく大きな海。まだ少年の浅く小さい足跡を残す砂浜。

アントワーヌは海辺からカメラを見るその瞬間、我々は初めてアントワーヌと目が合う。苦々しいようなまっすぐな視線を残して、この映画は終わる。アントワーヌは何を感じているのか?何を考えているのか?

 

ジャン=ピエール・レオトリュフォーの奇跡的な出会いの映画は、トリュフォーにとって自らの子供時代の供養であり、全ての子供時代を持つ人間への失われた感情と景色の引き金となる。

ウォン・カーウァイ『花様年華』

「ぼくは

挨拶したかったんだ

さよならって」

という詩の一節を目にした。(誰の詩かは明記しないでおく)

それが心に残り、何度か思い出すうちに

「ぼくは

ただ挨拶したかったんだ

さよならって」

というふうに、いつの間にか記憶していた。

人の記憶は感傷をもって改変されうることの好例だな、と思った。

「ただ」が加わることで、「さよならと言いたかった」ことが強調される。その分すこし理屈が消えて感傷的になってしまう。

 

ビジュアルに訴えかける作品というのは、理屈よりも感情に訴え掛ける力が強い。だから、それを見たときにどうしてこんなに驚き感動するのか、考えて言語化するのはすごく難しい。可能なのだろうか、とさえ思う。

 

最近、ウォン・カーウァイ王家衛)監督の映画『花様年華』(2000年)を見た。

20歳前後に見たきりで、ふとマギー・チャンの様々なバリエーションのチャイナドレス姿が見たくなってレンタルした。(もう何ヶ月映画館に行ってないだろう...) 


映画『花様年華』オリジナル予告編 ウォン・カーウァイ

60年代の香港を舞台に惹かれ合う二人の男女の物語だ。

見ている間中、こんなにすごい映画だったのかと…良いシーンを延々と並べることはできるけど、それ以上のことはどうしたら言えるのかと…いう気持ちになった。

画面の求心力が常に一定レベルを保ち、美術・構図・色味がその世界観を確立している。

見るものを惑わせる空間と時間の構造、カメラの向けられる方向、動き・切り返し、それらが神がかっている。

 

完成度がずば抜けて高く天才が作った、と思う映画の一つの要素に、どの場面を切り取っても一枚の絵葉書にできる、というのがあると思う。

今までにそう感じた映画は

ベルトルッチ監督の「暗殺の森

エリック・ロメールの大体の映画

だったけど、今回「花様年華」が加わった。

 

ミーハーな私としてはマギー・チャンの美しさに驚いた。

おそらく派手な顔立ちではないと思うのだが、上品さと可憐さを失わず成熟した美しさを持ち、この映画の中では一輪の芍薬のような静かな華やかさで存在している。

彼女を美しく撮ることにかなりの神経を使った映画であろう。

もちろんこの魅力は、ビジュアルから来るものだけではない。

「ああ、映画のための俳優だな」と思わせる存在感の強度を持っていて、正直この「強度」を持つ俳優はものすごく少ない。

 

この世界観の確立した映画にのまれることなく、むしろ相乗効果でもっと高い次元の感情に導いてくれるのは、マギー・チャンのふとした動きや佇まい、声、そして一瞬の奇跡の様な何とも言えないアンニュイな表情だ。

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物語で二人は結ばれることはないのだが、

数年後に二人が過ごしたアパートを訪ね窓から外を見るマギー・チャンの表情。

涙をためているような潤んだ目でじっと見て何かを考えている、それを見ていたらもう何も言う言葉は無くなってしまう。

 

トニー・レオンはプレイボーイ役が多い印象だけど、「花様年華」では優しげなサラリーマン、紳士的で真面目な小市民というところ。

全くベッドシーンがないのも、彼の、なんて言うのだろう...端正で純朴な魅力、憂いと優しさをたたえた目、そういったものをストレートに感じることができる。

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こういう雰囲気を持った俳優は今の日本でいるのかな...吹けば飛ぶような儚さ、それと相反する存在の強さを両立し、男らしさを備えた、きれいな雰囲気を出せる俳優。

昔の日本映画だと例えば、佐田啓二森雅之、といった王道の2枚目俳優が浮かぶのだけど。

 

ラスト、トニー・レオンアンコール・ワットの柱の穴に自らの秘密を打ち明ける。

そのあと、穴からは植物の蔦が生えている。

二人はお互いの面影を忘れることなく別々の人生を送るのだろう。そしていつか死ぬだろう。誰も知ることのない物語となるだろう。

しかしそれを打ち明けられた石の柱からは生命が芽吹き、世界の片隅でひっそり生きて残っていく。

ここで何を言って結びとしたらいいのか分からないけれど...この言葉にならない叙情を残す映画を傑作と言わず何と言うのだろう?

美しい映画である。

 

四月は最も残酷な月

「四月は最も残酷な月」で始まる、T.S.エリオットの詩「死者の埋葬」。

===メモ===

APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.

 ========

4月はなんとなく憂うつだ。

新生活など始める人ならば憂うつなのに、色々やることが多くてしんどいだろうな。

できればあまり動かずに過ごしていたい月だ。

特に何かあるわけではないけど、「四月は最も残酷な月」という言葉がすんなり来る。

まず雨の降り方が人を憂うつにさせる。

重い雨が静かに長く降り続け、生ぬるい空気が覆う。

桜はきれいだがすぐに散ってしまう。

来年も桜は咲くだろうが、果たして人間社会は来年も機能しているのだろうか。

心もとない気分になる。

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しかし「四月は最も残酷な月」とはよく言ったものだ。

エリオットなど全然詳しくないのに、そんな人間に対してもこうもしっくり来る魔法のような言葉を出してくる詩人は、やっぱりすごいと思う。

ちなみに、パウル・ツェランの「死のフーガ」という詩。

夜明けの黒いミルク

僕らはそれを晩にのむ

僕らはそれを昼にのむ 朝にのむ

僕らはそれを夜にのむ...

という詩を初めて読んだ時も、なぜだか分からないがひどく心に残った。

解説を読まないとこの詩の背景などは分からないのに、日本語訳されてなお残る言葉のインパクト、深い悲しみに驚いた。

「夜明けの黒いミルク」。これだけで途方もない人間世界の悲しみ、複雑さが迫ってくる。すごいフレーズだとしみじみと感動する。詩人は偉い。詩人はすごい。ギフトだ。

 

年々時間が経つのが早くなり、いつの間にか桜の花も散り、葉桜になっていた。

八重桜はまだ花がついているかな。

22年前の1998年4月、相模原市に引っ越して、転入する小学校の校庭に咲いていた八重桜と藤の花を母と取ったことを思い出した。

電話番号が新しくなって覚えられなかったこと、「すすきの町」というまるで絵本に出てくるような地名の場所に住んでいたこと、夏にはチェックのワンピース2枚を毎日交互に着て、くしを通さない髪の毛で登校していたことを思い出す。

10年前の2010年4月に上京した。行きの新幹線で、もうここが「住むところ」ではなくなることが不思議だった。そして東京に「住む」ということもよく分からなかった。

2010年4月は天気が悪い日が多く、不安で憂鬱だった記憶がある。

桜も全然目に入らず、初めて操作する学内のMacに手間取り、いろんなIDとパスワードをメモしていた。

最高学府に入学したのに、晴れ晴れとした気分にあまりなれなかった。生ぬるい風と悲しくなるような春の日差し、すぐに寒くなる夕暮れ。

あれから10年が経ったわけだ。

 

高校生の頃、詩を読むことの特別は、「余白」への憧憬だと思った。

詩のページには余白が多い。しかし、その余白には無限に何かが描き込まれていることに気づいた。その詩が書かれた時代の情景、温度や湿気やにおい、風、といったものをありありと感じることができた。あれは奇跡的な瞬間だったことにいま気づく。

なぜなら、今詩集を読んでも、あの時ほどありありと感じることはできないから。あの頃、確かに何ものに邪魔されない純粋な感性を持っていたのだ。

しかし別に悲観的になったりはしない。専門家には遠く及ばないにしても、あの頃より知識も増えたし、読むことへの理性や分別がついたおかげで、視野が広まり、「夜明けの黒いミルク」に初見で感動することができるようになった。

歩いているときに、心もとない気持ちになれば、詩を頭に浮かべる。

世界が、歴史が、とても残酷なことを思い起こさせてくれる。

そして私自身がここに何事もなく存在していることが、とても(私にとっては多分)幸運であることに気づく。

予測不可能で何にも意味がない世界だから、唐突にパンデミックが起きてどんどん人が死んでいく。

存在というもの自体は、そもそも闖入者なのだろうと思う。

昔「寄生獣」というマンガで寄生獣というのは人間なのか、ミギーなどの寄生生物なのか?というやや反語的な問いがあったが、主体・主観という物差しを取ってしまえば、どっちもどっちなのだろう。

「あまりいじめてくれるな、私たちは弱いのだから」と言い残して、作中哲学的な思考を遂げる女性キャラクターは死ぬ(寄生生物は「死ぬ」んだっけ?)、これについてはいまだに色々と考えてしまう。

「夜明けの黒いミルク」というのは歴史上の数々のおぞましい事柄(ユダヤ人であったツェランにとってはナチス)によって死んでいった名もなき弱者のおびただしい犠牲、それを絶えず僕たちは飲み込んでいくのだ、ということだったと思うが、なるほど予測のできない出来事の積み重ねでなんとか成り立つ世界において、黒いミルクを飲みながら生きていくその脆弱性は、忘れてはいけないのかなぁと思ったりする。