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「天使が落とした松明」

「天使が落とした松明」という言葉を聞いたときに、何をイメージするだろうか。

天使という存在は不思議だ。特に宗教を持っているわけではないので、具体的な在り方を信じているわけではないけど。

自由でどこか危うくて、救われた(はずだった)存在。

パウル・クレーの「忘れっぽい天使」という絵を知ったとき、「忘れっぽい」と「天使」の組み合わせにものすごく切なくなった。

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パウル・クレー「忘れっぽい天使」


笑みを浮かべる忘れっぽい天使は、記憶を、それが過ぎたそばから砂のようにこぼしてしまうのだろう。

忘れっぽい天使はいろんなものを落としていってしまうのだろう。

それを地上にいる人間は目にし、耳にし、気づかぬうちに頭からかぶっていたりするのだろうか。

 

冒頭の問いは、ある短篇小説の一節であるから、一応答えはある。

そこでは「天使が落とした松明」は紅葉した木々の葉だ。

 

この短篇については10月中に書いておきたい、と思っていたら11月になってしまった。

というのもこれを初めて読んだのは、数年前の10月だったから。

時間が経つのが早すぎて、カレンダーの数字に置いていかれ、どんどんその距離は広がっていくようだ。

 

インゲボルク・バッハマンというオーストリアの詩人・作家がいる。

1926年生まれ、53年に「猶予された時」という詩集でデビューし、それまでになかった詩として高い評価をうけ人々の注目を集めた。

若く鮮烈な才能がどれほどのインパクトを文壇、読者に与えたか、想像には難くない。

23歳で哲学の博士号を取得するという才媛ぶりで、ドイツ語圏を代表する詩人パウル・ツェランとの若き日の恋愛もよく紹介されるところだ。

1973年の秋、自宅で重度のやけどを負い、それがもととなり47歳で亡くなった。

その死については

「早朝、ガスコンロでタバコに火をつけようとしたところ衣服に燃え移ったとされているが、頭がもうろうとしていて火に近づきすぎたのか、たまたま引火しやすい素材の服を着ていたのか、はたまた自殺願望があったのか、死の真相は定かではない」(松永美穂、「三十歳」訳者解説より)

のどかなことを言うと、タバコに火をつけるためにガスコンロを使うという光景に時代を感じる。

またバッハマンは、晩年はあまり人生がうまくいっていなかったとされているので、自殺と思われるのもある程度仕方がないのであろう。もちろん真相は分からないが。

また、彼女の詩には「火」のモチーフがよく使われていたので、火によって亡くなったというのが偶然としても、どこか繋がりを感じてしまう。

 

岩波文庫から「三十歳」というタイトルで出されている短篇集には、7篇の短編小説が収められている。

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その中で最初に登場する掌篇が「オーストリアの町での子ども時代」だ。

 

冒頭の二段落から素晴らしい。すごく好きなところだ。

 

よく晴れた十月の日々、ラデツキー通りから歩いていくと、市立劇場の隣の一群の木々に陽が当たっているのが見える。濃い紅色の花を咲かせても実はつけない桜の木々のなかで、一番手前の一本は、秋という季節によって燃え上がり、途方もない黄金の塊のようだ。まるで天使が落とした松明のように見える。いま、木は燃え上がっている。そして、秋の風も霜も、その火を消すことはできない。

 

その木を目の前にして、誰がわたしに落葉や凍死のことなど語れるだろう?その木を目に据えて、いまこの瞬間と同じように、この木はずっと輝き続けるだろう、世界の法則もこの木には当てはまらないだろうと信じることを、誰が妨げられるだろう?

 

紅葉した木を「天使が落とした松明」とする比喩で、わたしはそれまでに持っていた紅葉のイメージに全く新しい一面を見た。

秋という季節によって燃え上がった一本の木。

段々と昼の時間が短くなり、冬という生命力の落ちる季節に向かう秋は、どこか終わりを意識しながら過ごす短く穏やかな季節だった。

だが、「秋の風や霜」「落葉」といった自然の摂理を目の前にしても、頑なにと言えるほど、紅葉した木々の葉の輝きを信じるこの無謀さは、夏に向けられる無責任な憧憬に似ている。

 

ありえない世界を「誰が妨げられるだろう?」という反語で結ぶ強引でまっすぐ姿勢は、子どものときの姿勢なのだろう。

あり得ないことを信じるという、もう失われたかもしれない姿勢を、子ども時代を振り返る際に引き出すのは、本当にそう思っていたからだという主観的な真実を強調する。

紅葉によって鮮やかに色づいた木を見て、燃え上がる炎を連想するのは、どこかただならない。

私だったら、燃え上がる木を前にして、火の粉が飛ぶのではないかとさえも怖くなるかもしれない。

それは、幼稚で無謀な子ども時代の世界の見え方をまっすぐ受け止めることが、現実の人生から離れてしまうこと、切なさに心が荒涼として生きていけなくなるのに繋がることを直感しているからだろう。

だからこの短篇は、一瞬まぶしくも寂しい読後感がある。