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サニーデイ・サービスの歌詞が好き

サニーデイ・サービスの曲の歌詞が好きだなぁと、聞きながらよく思う。

それはつまり曽我部恵一という人物の書く歌詞が好きだなぁということなのだろう。

この人は春生まれかなぁと勝手に思っていたら夏生まれだった。

 

初めて「恋に落ちたら」という曲を聞いた時に、歌詞が構成するシンプルな世界に拍子抜けした。

それくらい平易な言葉で優しく、良い意味で奥行きのないフラットな内容なのだ。

サニーデイ・サービスの初期アルバムについて、はっぴいえんどの影響がよく言われているが、優しい時間が流れ、瞬間を切り取ったような淡泊で叙情性の高い世界は、確かに通じるものがある。

 

これもよく言われることだが、例えば小沢健二の曲の歌詞は「詩」であると確かに思う。

対して曽我部恵一の歌詞は「歌詞」だと思う。

その違いについて

・シーンの描写とメロディとの連帯感

・点在する物事の繋がりを暗示させる予感

の要素の軽重ではないかなーと思う。

もちろんこれは個人の感受性の問題なので人によって違うと思うけど。そしてもちろん、どっちがいいとかそういうことではない。

 

特に「点在する物事の繋がりを暗示させる予感」は

小沢健二の「ローラースケートパーク」(1993年アルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」収録)という曲の歌詞で開眼するところがあって

例えば

 

浜辺にはクローバーの花 白い雪のように散らばり

鼻をすすりくしゃみをして 犬が空を見上げてる

来た風を帆に受けて走る 青や黄色が波に消えてく

遠く遠くつながれてる 君や僕の生活

 

という部分。

4行全て別々の物事なのだけど、同時線上で起こっているような、何となく全部繋がっているような不思議な予感がしてしまう。

(これは星座みたいなもので、一つ一つの星を繋ぐとこんなイメージになるね、という感じ)

この予感をさせるパワーが「詩」と感じさせる所以かなと思う。

 

「歌詞」は、シーンの描写がもっとフラットで、言葉のパワーが、点がつながることによる世界の形成、予感の誕生とは別の方向へ向かう。どこかで見たような小道を歩いていくと懐かしい風景が見えるね、忘れていたような記憶が蘇るね、という感じ。

 

初めてサニーデイの曲を知ったのは「恋に落ちたら」だったのだけど

 

どこかの家に咲いたレモン色の花ひとつ

手みやげにして君に見せたいんだ

 

という一節で

この牧歌的な行動と「レモン色」のイメージとしての強さと優しさに不意を突かれた。

春といえば「レモン色」だなとその時初めて気づいたような、そして子供の頃に見た黄色の花を思い出したような気がしたのだ。

そして

 

昼にはきっと君と恋に落ちるはず

夜になると2人は別れるんだから

 

というサビの歌詞にびっくりした。

なぜかと言うととても説明しづらいのだけど…

この「恋」の背景がよく分からなかったからだと思う。

この2人は昼になると恋に落ちて、夜になると別れるん「だから」?また昼になれば恋に落ちるの?

という不思議さ・純粋な世界と、繰り返しになるがこのフラットでシンプルな世界観に。

 

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サニーデイ・サービス「東京」(1996)

曽我部恵一の歌詞は色の使い方がとても巧みだ。

例えば「若者たち」

 

君の白い腕はまるで

青い畳のようだね

 

意味的には矛盾しているようなよく分からないフレーズなのに、女の子の細くて白い腕がい草の匂い立つような畳の上に投げ出されたイメージがなぜか瞬時に湧いてくる。

例えば「サマー・ソルジャー」

 

その唇染めるのは

彼方に沈む夕陽なのか

僕の心つかまえて

青ざめさせる恋の季節

 

赤い唇をさらに赤く染めるのは夕陽の赤であり、それを見て僕の心が青ざめるこの季節は夏。

それは昼間の高く青い空と夕陽の鮮やかな赤という真夏の日の色の対比である。

 

そして秀逸なのはやはり、「青春の風景」としか言えない表現の数々

「若者たち」

「サマー・ソルジャー」

「真っ赤な太陽」

を聴いていると特に思う。

少しレトロでそれがまたすごく切ない。90年代の曲だから今から20年以上昔の曲なのだけど、常に10年くらい前の風景のような、近しくも薄れつつある記憶特有の切なさがあって、これが普遍っていうのかな、と思ったりする。